仏教

お釈迦さまの教法エントリー一覧

耳ある者どもに不死の門は開かれた

仏教は敬遠されがちかな、と感じることがしばしばあります(^_^;)
仏教は、

 

・言葉が難解
・概念も難解
・欲などを否定する

 

ということで、大変、敷居が高く、しかも人間の営みを真っ向から否定していきますので、敬遠されてしまいがちです。さらには、宗教団体絡みの事件などが起きたりして、イメージも悪くなり、毛嫌いもされがちです。

 

仏教が難解といいますか、難しいのは、これは仕方ありません。ですが、エッセンスそのものはシンプルで分かりやすいものです。ただ、「悟り」とか、「涅槃(ねはん)といったものはどういうもの?」と聞かれれば、文字や言葉で説明できないところがあります。
このため、仏教とは「分かりにくい」という印象があります。

 

実際、核心部分は、体験しないと分からないため、率直にいえば、何かを求めたり、魅力を感じなければ、興味関心が持たれにくい世界なのではないかと思います。

 

実は、仏教の開祖のお釈迦さまですら、自分が悟った方法を、説き明かすことに躊躇したくらいです。

 

お釈迦さまは、悟った後、そのまま涅槃に入り、人間としての生命を終えようとしたと仏伝に記載されています。けれども、梵天(ぼんてん)という神が、お釈迦さまに「どうか、その教法を、人間のために説いてくれませんか」と、「何度も」お願いして、ようやく「わかりました」と納得されています。

 

お釈迦さまが教法を説くのを止めようとした理由は、「微細で難しい」からだといいます。
非常にデリケートで難しい。しかも、人間の大好きな欲などを無くしてしまうアプローチですので、とてもではないが「難しい」と判断されたのは、至極、当然かと思います。

 

今でさえも仏教に対する批判や、毛嫌いを示される方もいらっしゃるほどです。ですので、仏教、ことに原始仏教となりますと、多少、肩身の狭い思いをしたりもします。

 

ですが、お釈迦さまは、梵天の懇願を受けて、気持ちを変えて、教法を説くことを決心されました。
このときの有名な言葉が残っています。

 

「耳ある者どもに不死の門は開かれた」

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2012/05/06


「心を浄める」が仏教の軸

仏教は、

 

心を浄める

 

教えであり、実践であることは昨日、書きました。

 

具体的な実践の仕方は、

 

八正道(はっしょうどう)

 

になります。

 

そして、「心を浄める」ことと「八正道」を組み合わせると、

 

四諦(したい)

 

になります。

 

これが仏教になります。

 

そして、一番重要なのは、

 

心を浄める

 

ということになります。
「心を浄める」というのが軸になり、仏教のスタートラインになります。

 

そして、心を浄めるために、仏教では「八正道」の実践をいたします。

 

さらに、教えと実践をまとめると「四諦(したい)」になるわけですね。

 

ここの辺りを整理しますと

 

================================

 

・目的と教え・・・心を浄める
・実践内容・・・八正道(はっしょうどう)

 

・これを一つにまとめると・・・四諦(したい)

 

================================

 

となるということですね。

 

 

仏教では、基本は「心を浄める」ということになります。

 

ですので、物事の判断、善悪もすべて「心を浄める」を基準にしていきます。
逆の言い方をしますと、煩悩を無くす、煩悩が無い、という言い方をします。
また善悪基準も、心が浄まっていること、煩悩が少ないことが正しくなります。

 

ところで「煩悩を無くす」という表現を使いますと、いろいろなイメージもあって抑圧的なニュアンスに受け止められやすいところがあります。ですので、「心を浄める」と言ったほうが、現代ではフィットする感じです。

 

厳密には、「煩悩を減らして減らしていく」といったニュアンスのほうが、実践上は役に立ちます。このことは、追々書いていこうかと思います。ですが「煩悩を無くす」といっても、決して「否定」や「抑圧」のニュアンスではない、ということですね。

 

分かりやすくいいますと「超リラックス」という感じのほうがピッタリしてくると思います。あるいは「手放す」とか「解きほぐす」といった感じです。マイルドでやさしい、微笑みのあるニュアンスが近いのではないかと思います。

 

ですので、煩悩を無くす = 心を浄める = リラックス = 手放す 

 

といった感じだと思います。

 

日本では、「煩悩を無くす」といいますと、どこか力強さや厳しさのイメージがあり、「煩悩断滅!」といった荒々しさもあります。ですが、本当は、やさしさや温かさをともなった微笑みのあるソフトな心に近くなります。

 

このように仏教の言葉一つとりましても、従来の語感を修正していく必要もあると思います。

 

話しを戻しますと、仏教は、煩悩を無くす、つまり「心を浄化する」というのが目標であり、大きな軸であり、幹であって、柱となっているわけですね。

 

ですので、仏教では、「心を浄める」という軸だけは、ぶらしてはならないことになります。

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2012/05/13


仏教は現在形の実践

仏教は

 

心を浄める

 

教えであり、目標であります。

 

ですが、こう言いますと

 

「いや、仏教は悟りを目指すものではありませんか?」

 

という疑問も出てきそうです。

 

そうです、理屈の上では、悟りを得るのも目標になります。
ですが、実践仏教の立場でいえば、悟りは目指すものではないようです。

 

ここはパラドックスになる部分です。
A+B=C とならない部分のようです。

 

実践上では、悟りは目指さないで、「心を浄める」という現在形の連続になるようです。

 

ちなみに、仏教における実践ではほとんどが「現在形」になるようです。

 

「現在形」とは、「未来」に何かを期待したり、「過去」のことを操作したりしないで、ただ現在において何を行うか、ということです。

 

この現在形のもっとも代表的なのが「あるがままに」という実践になってきます。
いわゆる「気付き」です。
「今起きていることに気付いていく」という実践です。

 

「涅槃を目指す」となると未来形になってきますので、こういうアプローチは厳密には違ってくるようです。

 

これは、近代の大阿羅漢と言われたアーチャンチャーがおっしゃっていることが元になっています。

 

仏教における実践上の特徴ですね。
一種のパラドックスに感じる部分です。

 

ここまでを整理しますと、仏教は

 

・心を浄める
・現在形の実践

 

となるかと思います。

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2012/05/14


八正道の本質

仏教の実践は、八正道になります。
ですが八正道にしても、基本は「心を浄める」という軸で行われていきます。

 

そうして、八正道の項目とは、こちらになります。

 

項目よりも、その本質を把握しておくことが、実践仏教であろうと思います。
正見、正語・・・という言葉を覚えるよりも、その本質を押さえておくことが大切でしょう。

 

何故、こう言えるかといいますと、実は、八正道は、しばらく経ってから整備された教えの体系になるからです。

 

元々、断片的に実践法が説かれ、次第に八正道として整理されました。

 

最もシンプルな八正道の形は、

 

戒(かい)・定(じょう)・慧(え)

 

というものです。これを三学(さんがく)といいます。

 

戒(かい)・・・普段の生活における「行為」「言葉」「心のあり方」を浄めていく実践です

 

定(じょう)・・・サマーディ、サマタ、禅、ジャーナ、止、といい、禅定を意味します。深い瞑想を得る修行です。

 

慧(え)・・・サティ、念、気付き、観、ヴィパッサナ、これこそ仏教の特徴であって、智慧を獲得する瞑想になります。

 

なお「定・慧」を「念・定・慧」と分類する説明の仕方もあります。より精密な分け方です。ですが、この辺りの分類の仕方や、言葉にはあまりとらわれないほうが良いと思います。
要は、1個リンゴをどのように切って説明するかに似ています。ちなみに、この切り方によって、八正道は三学のほかに、7つの切り方(7種類の分類の仕方)もあります。

 

この「戒(かい)・定(じょう)・慧(え)」をセットで行うのが、仏教における実践行になります。そしてこの「戒・定・慧」をより具体的に項目化したのが、八正道になります。

 

このように本質を押さえると、シンプルであることがよく分かるかと思います。

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2012/05/15


四聖諦

四聖諦(ししょうたい)。
仏教の教えが集約された最もエッセンス中のエッセンスとなるものですね。
パーリ仏典の中部経典「象跡喩大経」では、四聖諦は象の足跡のようなもので、仏教のすべてが集約される教えであるとあります。

 

四聖諦は仏教では最も重視される教えになり、もっともコンパクトにまとまたものになります。
四聖諦の解説も数多くありますが、簡単に言ってしまいますと、仏教の教えと実践を形式的に説明したものだと思います。

 

四聖諦は

 

苦(く)
集(しゅう)
滅(めつ)
道(どう)

 

となっています。
ここには、「心を浄める」という仏教の目的と、その「方法」と「仕組み」が簡潔に説かれています。

 

まず、仏教は「心を浄める」教えですね。これはもう大前提中の大前提であり、これを外したら仏教ではなくなります。心を浄める、言葉を返せば「煩悩を無くしていく」ということになります。

 

そうして、まず「仕組み」ですが、お釈迦さまは、心が汚れていく仕組みと、心が浄まっていく仕組みを四聖諦の中で説いています。

 

心が汚れていく仕組みは、四聖諦の前半で説いています。それが、

 

苦・集

 

です。

 

最初の「苦・集」では、心が汚れていく、つまり、苦しむ悩む仕組みを説明しているのですね。
どういうことかといいますと、

 

「苦しみがある、それには原因があるから」

 

ということです。

 

苦(結果)←集(原因)

 

という関係です。

 

「なあんだ」と思うかもしれませんね。
これは現代人では当たり前のことに思われるはずです。
「原因があって、結果を生じる」という因果関係を説明しているからです。
ですが、理知的に因果関係を知るだけでではあまり役に立ちません。せいぜい原因と結果の原理を知る程度で終わってしまうでしょう。

 

しかし仏教の特徴は、この因果関係を利用して、苦から解放することが可能と説いている点です。ここなんですね、仏教の特徴であり特殊性は。

 

その脱出方法を説明する前に、因果関係によって苦悩を引き起こしているということを、四聖諦の前半では説明しているわけです。

 

そして、仏陀は、苦悩を引き起こす原因を「執着(しゅうちゃく)」であると見抜きました。
原因のもう一つに「無明(むみょう)」もあります。執着にしても無明にしても、これらが原因で苦悩を引き起こすということを見抜いたわけです。

 

四聖諦の前半では、「執着があるから苦を引き起こす」という真理を述べているわけですね。

 

 

では、四聖諦の後半はどうかといいますと、

 

滅・道

 

苦を滅することができます、それは八正道を実践することです

 

ということを言っています。
言い換えますと、「心を浄めることはできます、それは八正道を実践することです。
となります。要するに救いの「方法」を説いています。

 

しかもこれも因果関係になっています。

 

滅(結果) ← 道(原因)

 

救いの因果関係ですね。
四聖諦の後半は救いの真理です。そしてこれが仏教の実践になってきます。

 

 

四聖諦は、
・前半が苦しみの真理、
・後半が救いの真理、
というような二段構成から成る論理形式となっています。

 

四聖諦とはこのような教えになります。
仏教の目的である「心を浄める」ことと、仕組み、方法が簡潔に述べられた教えになります。

 

 

しかし四聖諦はこれだけに終わりません。教えが立体的にまとめられています。
実は、苦・集・滅・道のそれぞれをしっかりと知る(気付く)ことも実践に入ってきます。

 

経典中の四聖諦には
「こは苦なり」とあるがままに了知するのである。
「こは苦の生起なり」と、あるがままに了知するのである。
「こは苦の滅尽なり」と、あるがままに了知するのである。
「こは苦の滅尽にいたる道なり」と、あるがままに了知するのである。
とあります。

 

このように、苦や原因などもしっかりと気付いていく必要があることを示されています。
四聖諦は、教えや実践、仕組みが、立体的にまとめられていると思います。簡潔な4つの語句で表現していますが、その中身は大変奥深く、説明の仕方も幾通りも出てくると思います。ですが、ポイントを簡潔に押さえておくことは、実践上、必要であろうと思います。

 

 

そうして、これも大事なことですが、また先にも触れましたが、四聖諦の前半と後半は、それぞれ因果関係になっている点です。

 

苦悩の因果関係: 苦←集
救いの因果関係: 滅←道

 

ということです。

 

そしてこの因果関係を「縁起(えんぎ)」といいます。
縁起とは、因果関係のことをいいます。
縁起は、別名、因縁(いんねん)ともいいます。

 

時々、因縁という言葉を聞くこともあると思いますが、縁起のことをいいます。因果関係のことですね。

 

そして仏教では、この縁起を重視します。
なぜなら、縁起を通して苦からの解放が可能だからです。

 

縁起は、森羅万象の存在原理でもありますが、仏教は、この原理を利用して、苦からの解放も目指します。縁起を使って心を浄めていくわけです。

 

では縁起をどう使って、心を浄めていくのでしょうか。
続きはこちら。

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2012/05/16


縁起

縁起(えんぎ)は仏教では重要な教えの一つです。
縁起は、因縁とも言われますが、因果関係のことをいいます。最近では、因縁というと新興宗教でも使用されていることから、運命を束縛する要因のように思われている節もありますが、これは誤りです。

 

因縁とは、縁起の別名であり、因果関係の様をいいます。
そうして仏教では、

 

・縁起によって苦を生じ、
・縁起によって安らぎを得る

 

ということを四聖諦(ししょうたい)で説明しています。
※四聖諦のことはこちら。

 

 

四聖諦の前半・・・苦の縁起/煩悩を生起させる連鎖反応の解明

 

縁起のもっとも整備された形式を「十二因縁」といいます。
十二因縁とは、このことです
ここでは十二因縁のことはあえて説明しませんが、ポイントは、この十二因縁は、しばらくしてから整理された体系ということです。最初は、2個、3個の縁起支によって説明されていました。最も重要なのは

 

受(じゅ:ヴェーダナー) ⇒ 渇愛(かつあい:タンハー) ⇒ 執着(しゅうちゃく:ウパダーナ)

 

という縁起です。
この縁起は、最も重要な連鎖反応を示しています。

 

眼や鼻、舌などの感覚器官は、何かをキャッチすると「原初的な感覚」を生じます。この原初的な感覚は、「快」「不快」「中性」の3つになります。この原初的な感覚を「受:ヴェーダナー」といいます。

 

また「快」「不快」「中性」といった感覚(受:ヴェーダナー)を受けると、この反応に対して「好き」「嫌い」「無関心」といった渇愛(タンハー、感情、煩悩)を生じます。

 

そうしてこの「好き」「嫌い」「無関心」の渇愛を、それぞれ貧・瞋・痴(どんじんち) といいます。煩悩の最も原初的な発生です。実は、「渇愛の段階」で煩悩が生起します。

 

さらに、渇愛(タンハー)は、より濃密な感情(煩悩)となって執着(ウパダーナ)を形成します。

 

このように、感覚器官から何かを受けると「受:ヴェーダナー」の作用が起き、連鎖して(自動的に)、渇愛(タンハー)を生じて、執着(ウパダーナ)となって濃厚な煩悩と化していきます。

 

この煩悩を生起する連鎖反応(因果関係・縁起)は重要ですので、ここまでを整理しますと

 

受(ヴェーダナー)⇒渇愛(タンハー)⇒執着(ウパダーナ)
「快」・・・・・・・「好き」・・・・・貧
「不快」・・・・・・「嫌い」・・・・・瞋
「中性」・・・・・・「無関心」・・・・痴
原初的な感覚・・・・原初的な感情・・・煩悩

 

これが煩悩を生起させるメカニズムであり、この一連の連鎖反応を「縁起」というわけです。因果関係です。
「これありて彼あり」です。「受あれば、渇愛あり」です。

 

このことが、四聖諦(ししょうたい)の前半部分の「苦・集」のことになるわけです。「苦しみを生じる縁起」をいいます。

 

残念なことに生命は、この連鎖反応(縁起)が、自動的に作動するようにインプットされています。

 

 

四聖諦の後半・・・苦を断滅する縁起/煩悩を滅する縁起の活用

 

しかし仏教では、「気付き」を養うことで、この連鎖反応を引き起こさないようにしていきます。それが、四聖諦の後半の「滅・道」です。

 

感覚器官でキャッチした「快」「不快」「中性」の感覚の段階で「気付き」を入れると、その後の渇愛(タンハー)を生じさせないことが可能だと仏教では説きます。

 

これを完全に行うと、阿羅漢になるわけです。

 

仏教では「気付きの瞑想」を行うのも、この「渇愛(煩悩)」を生起させないようにするためです。救いへの脱出ポイントが、「受 ⇒ 渇愛」という因果関係(縁起)の部分にあるわけですね。

 

しかしこれは理屈の上の教えであって、実際に行うことは大変、難しくなっていきます。現代では出家しても到達できない場合もあります。それくらい非常に難しいことのようです。出家して清浄な実践を徹底して、どこまでできるかといった世界のようです。

 

しかも「受 ⇒ 渇愛」を自覚するためには、実は非常に鋭利な感性も必要になってきます。瞑想を深めることで、この辺りの連鎖反応が分かるようになるようです。

 

ですが、「受 ⇒ 渇愛」の縁起が自覚できなくても、気付きの瞑想を続けていくことで、瞑想中は自覚していなくても「受 ⇒ 渇愛」の連鎖反応は減っていきます。

 

仮に5%でも10%でも、減らすことができれば、一般人にしてみればかなり安心感も出てくるでしょう。実際、日々の生活において、多少なりであっても(たとえば10分とか20分)、気付きの瞑想を行えば、気持ちがスッキリし、その後も、スッキリした気持ちで生活ができます。

 

出家のように四六時中(出家でも四六時中はできないケースもあるようです)、気付きを保つこができなくても、一日に少しの間、意識して気付きを保つようにすれば、安心が得られるでしょう。

 

仏教で「縁起」を説くのは、森羅万象のメカニズムを解明するためではありません。実に、煩悩を生起させないために「縁起」を利用するわけですね。

 

日々の生活において「気付き」を保つことが奨められるのは、こういう理由からです。

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2012/05/17


独覚

お釈迦さま以外にも、過去にブッダとなった方々はたくさんいらっしゃいます。これはパーリ仏典にも記載され、大変な数の仏陀がいらっしゃいます。

 

しかしほとんどが「独覚(どっかく)」という方でした。
独覚とは、悟っても誰でも言わず、そのまま亡くなっていくブッダをいいます。
辟支仏(びゃくしぶつ)ともいいます。

 

「悟っても誰にも言わずに亡くなるとは、なんという身勝手な!」と思われるか方もいらっしゃるかもしれません。しかし、ブッダとなると、人間には理解のできない微細なメンタリティとなります。ブッダの心には、身勝手な心が一部もありませんので、悟っても誰にも語らないということは、決して身勝手なのではありませんね。

 

ブッダとなった者の心は、後世のアビダルマという時代になると、「唯作心」という言い方をして説明しています。

 

唯作心。
執着を離れたブッダ特有の心をいいます。
唯作心は、ブッダにならなければ分かりませんが、決して身勝手で自分本位お心情ではないことは間違いありません。ブッダになると、独特の心となるようです。

 

ですので一人悟って「独覚」となっても、誰にも言わずに亡くなっていくブッダは多かったようです。パーリ仏典に載っている独覚は、相当な数です。

 

しかし過去七仏は、悟った後、人々にダンマを説いています。
過去七仏とは、ブッダになったあと、自らダンマを語り、大衆にダンマを広めたブッダのことをいいます。お釈迦さまも過去七仏のお一人になります。

 

ところで近年においてもブッダは発見されています。
タイにいらっしゃったアーチャンチャーという比丘です。

 

「発見された」というのがブッダらしいところです。
ブッダになっても「私はブッダになった」と宣誓はしないようです。

 

お釈迦さまのように、自らダンマを広めようとする「しゃべるブッダ」は、実は稀な存在だったわけですね。

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2012/05/26


サンガへの入門〜きめ細やかな配慮

お釈迦さま在世の当時、サンガへ入門した際、師匠と相性が合わない場合もあったようです。こういうときは、ほかの師匠の元で修行することが許されていました。
仏教では相性をとても大切にされていたようです。

 

このくだりを知って、原始仏教の深淵さ配慮の細かさに圧倒された思い出があります。

 

人間関係が悪化したり、つまづく原因の一つに「相性の合う合わない」がありますね。「相性なんてないよ」という方もいるかもしれませんが、人間だけでなく物事には「合う合わない」はあります。

 

職場でも学校でもサークルでも、どこでもどうしても合わない人・仕事というのはあります。ですが相性自体、良いとか悪いとかはなく、文字通り、単に相性の問題です。

 

相性は少々悪くても、慣れるに従って気にならなくなることも多いものです。ですが、著しく相性が悪い場合、これを無視した対処や行動をしていますと、問題に発展していきます。
合わないのを続けていくと、次第に嫌悪感が出てきたり、疲れたり、あるいは成長が望めなかったりと、マイナスの現象が出てきます。実はこれが問題です。

 

元々、相性ですので、これ自体に善悪としての良い悪いはないのですが、あまりにも相性の悪い方や物と一緒になっていると、次第に嫌悪感や疲労感に発展するのが問題なのですね。

 

相性が合わない場合、「寛容性を高める」のが理想ではあります。しかし現実はそこまで望めないケースも多いものです。心を成長させることができて、初めて相性の壁を乗り越えられることができます。こういう修行なり訓練をしなければ、多くの場合、単なる無理強いとなってしまいます。

 

ですから相性が問題に発展しないためには、克服できそうもなければ、距離を置くとか、相手を変えるとかの対処が現実的になります。仏教ですら、そのように対処しています。無理に寛容することは心に歪みを起こすこともありますので必ずしも良いとは限らないような印象です。

 

原始仏教は、心を扱い、しかも大変デリケートな対処をしていきますので、師匠との相性が合いそうもなければ、変えてしまうというのは、実に相性の妙味が充分に分かっているからだと思います。一生共にしますので、相性を配慮するのは大変合理的だと思います。

 

原始仏教では、修行の方法でも相性を尊重します。
不浄観という瞑想があり、これは死体が腐っていく様を見て、欲を無くし無常を悟っていく伝統的な方法です。しかしお釈迦さま在世の当時、この不浄観が苦手なお弟子さんがいたようです。

 

そのお弟子さんの前世を見ると、多くの生涯で綺麗な物、金細工を加工するなどの仕事に携わり、美しい物を扱う業が多いことが分かったそうです。

 

そこで十遍処という瞑想の一つの赤遍処という方法で、美しい赤を見続ける瞑想をしたところ、すぐにサマーディを得たといいます。

 

このように原始仏教では、相性や適性を尊重しながら進めていった形跡が見られます。

 

しかし理屈だけで考え出すと、相性や適性を「わがまま」「甘い」と判断するようになります。これは理屈だけで考える典型的なパターンです。もっとも、成長という軸が無ければ、確かに単なる「わがまま」や「甘え」に陥るでしょう。ですので、軸として「人間の成長」ということが前提になってきます。

 

しかし教育や倫理では「嫌なもので我慢してやりなさい」「寛容な心を発揮しないさい」といった無理を強いるやり方も少なくありません。といいますか、この方法が簡単ですので、わりと多く行われています。嫌なことを我慢したり、無理に受け入れることが正しいとし、心の成長にもつながるという理屈も付けます。

 

ですが現実は、むしろ逆です。こういった我慢のし過ぎや無理による心身の歪みの問題はたくさん起きています。日本人の場合、特にこういうバイアスがかかりやすくなっていますので、ほどほどにしたほうが良いと思います。

 

決してわがままを助長させるということではなく、心を成長させる下地や軸があれば、相性を配慮した措置は、むしろ、人間は成長し豊かになっていきます。

 

実際、気の合う友人や仲間を大切にし、その中において心を成長させる関係になると、愛ややさしさが自然と育まれてもきます。これは子供の情操教育でも役立ちます。いえ大人でも役立ちます。心が成長しやすい環境は大切ですね。その環境の要因の一つに「相性」があると思います。

 

原始仏教では抑圧させることは原則的にやっていおらない様子です。
心を知り尽くした原始仏教ならではの素晴らしい配慮と、優れた指導方法であると思います。現代社会においても示唆に富む指導であると思います。

 

仏教が素晴らしいと思う理由は、こういった現実的で合理性があり、なおかつきめ細やかな配慮をしている点にもあります。

 

また原始仏教では入門者の性格や気質を6種類に分けて、その方に合った修行方法を採用していました。本人の適性や資質を踏まえた上で、緻密な指導をしていたようなんですね。ですが反面、修行をなまけていると大変厳しく、あまりにも厳しい指導のために自殺したり還俗した弟子もいたくらいです。

 

仏教の瞑想法には何種類かあります。
ですが現代では、伝統的な瞑想法を在家に直接教えているケースはほとんど無く、在家向けにアレンジした形が多くなっている様子です。手動瞑想もその一つになります。ですが、これには理由があり、指導者の側で修行を進めないと厄介なことを乗り越えられないことが起きてくるためのようです。例えば瞑想法によっては、視覚や聴覚、身体などに異常が出てくることがあって、指導者の元にいないと恐怖に陥ってしまい、ここを上手く乗り越えられないことが起きるからのようです。

 

指導もデリケートに配慮されていますが、瞑想の進み方も実は非常にデリケートなところがあるようです。
ですが、在家向けに行われている瞑想のほとんどは安全ですので、大丈夫です。

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2012/05/27


サンガ(僧伽)

仏法を学び実践するための集団です。
三宝の一つであり、漢訳では僧伽(そうぎゃ)といいます。
出家した比丘らが集うグループです。仏道修行における大切な集団です。

 

当時、こういったサンガがインドには、大小たくさんあったようです。
サンガは、和尚を含めた4人以上の出家比丘がいれば成立したようです。和尚となる方は完全な悟りを得た阿羅漢ですが、当時は、こういうった小さな出家集団がコロニーのように形成されていたようです。

 

中には、一生、お釈迦さまとも会わなかった修行者もいたようです。またお釈迦さまに会わなくても悟りを得た方もいらっしゃったうようです。

 

4人規模の集団もサンガでしたので、家族のような形ですね。
パーリ経典には阿羅漢となった4名の集団生活についての描写もあります。
寡黙で身振り手ぶりで合図して、お互いが助け合い、相喜びあいながら微笑ましく共同生活している様が描かれ、お釈迦さまはその様子を見て誉めたたえた記録が残っています。

 

サンガにはいくつかの約束事もありますが、中でも年長者を敬う(修行が進んでいる者を敬う、出家した期間が長い者を敬う)という上下関係はしっかりと築かれていたようです。

 

上下関係といっても、上司が高圧的な態度に出るという野蛮なやり方や封建的でないことは言うまでもありません。仏教の場合は非常に洗練され、かつ上品で、四無量心に貫かれています。

 

最近の世の中では、タテの関係を否定して、目上、教えを請う人に対しても、タメ口をきいたり、友人関係に持ち込んだり、中にはなれ合う関係を持ちたがる傾向も出てきています。あるいは、親子でも友達のようになれ合うのが良いとか、溺愛するケースもあるようです。こういうのが本能的におかしいと思えなくなっているのは、メディアの悪影響や歪んだ教育や思想の影響もあると思います。

 

日下公人さんではありませんが、現実にそぐわない平等観や変な教育、思想にかぶれ過ぎてしまっておかしくなっている、というのが起きていると思います。イデオロギーで本能が歪んでしまっているのでしょう。

 

仏教では、そういう変な概念や思想は持ち込まずに、人間がナチュラルかつ健全に集団活動ができるように序列を決めて運営をしていました。

 

それにしても4人以上いればサンガができたようです。当時は大集団で生活していたサンガもあったようですが、小規模のコロニーが各地で作られて、そこでひっそりと修行が行われた感じです。

 

現代でもタイやミャンマーの奥地では、昔ながらの自然の中で出家生活をされている方もいるようです。電気もない大自然の中で長年に修行していた出家修行者も知っています。

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2012/05/28


仏教は平等?

仏教入門のようなことを書いていますが、今回は仏教の平等観などについて書いてみたいと思います。

 

お釈迦さまがいらっしゃった当時もカースト制度という身分制度ががっちりと築かれていました。
カースト制度とは、
・バラモン(司祭)・・・神官、宗教者
・クシャトリア(王族)・・・王や貴族、武士
・ヴァイシャ(商人)・・・商工業
・シュードラ(奴隷)
という4階級からなる身分制度ですね。

 

カースト制では、身分が違う者同士が話しをしたり、まして恋愛など御法度です。現代でもカースト制度は根強く、払拭するのは困難とも言われています。スズキ自動車のインド工場では、日本式の全社一丸式の生産体制により、身分制度が多少緩んでいるともいいます。ですがインドでは今もなお根深い身分制度があります。

 

この根深い身分制度は、お釈迦さまが在世の頃も同じです。
お釈迦さまはクシャトリアという王族の出身でした。王族のお釈迦さまが、シュードラの奴隷の方に、声をかけるのですが、当時は身分が違うだけで、話しをすることすら御法度だったようです。
ですので、お釈迦さまに声をかけられたシュードラは「だんな、私に声をかけないでくださいませんか...」とまでいって拒んだようです。ですが、お釈迦さまは、その者が悟りに至る資質があることを見抜き、出家をすすめます。

 

当時、お釈迦さまに声をかけていただくだけでも大変なことだったようです。それでありながら「拒む」というのは、いかに身便制度の壁が強かったかを想像させます。現代では想像できない位、当時のインド人の心に、身分制度の影響があったことがうかがえます。

 

お釈迦さまは、心ある入門者に対しては誰であろうと「エーヒ、ビック(よく来たね、修行者よ)」と親しげに声をかけ、入門者を歓迎したといいます。

 

当時は、厳格なカースト制でしたので、身分の違う者同士が親しげに話しをすること自体あり得ませんでした。当時はこういったことは「絶対にあり得ない」ことであり、驚天動地の出来事だったようです。仏教が平等主義であることは、おそらくこういった身分制度の慣習にとらわれなかった姿勢から出ていると思います。

 

現代でいえば、さしずめ、経歴や学歴、社会的地位、職業、資産の多寡、能力などは一切関係ないといったことになるでしょう。

 

ですが、仏教は誰でも何でも受け入れて、平等というわけではありませんでした。このことはあまり知られていないと思いますが、受け入れることのできない人達もいました。

 

それは、あまりにも心が汚れ過ぎている人達でした。漁師などの殺生を好んで行う人も入門は認められなかったようです。
汚れ過ぎて浄めることができそうもない人、心を浄める志の無い人には大変厳しいところがありました。

 

たとえばある日、大勢の出家希望者がいたようですが、その人達が大声で騒いでいたといいます。その言動を見たお釈迦さまは「何事ですか、その大騒ぎな様子は。私はあなたたちのよう人は入門させません。速やかに帰ってください」と言って追い返してしまいました。

 

もっともこの話しは続きがあるのですが、いったん追い返されたこの人達も戒律をしっかりと守ることを約束して入門が許されたそうです。

 

他にも、心が汚れ過ぎている者を「愚か者」と称して、こういった者とは親しくしてはならないことや、不真面目な修行者を汚道沙門(おどうしゃもん)と言って、こういった者とは軽率に親しんでならないとまでおっしゃっています。

 

仏教は心浄める向上心のある者にとってはオープンなのですが、そうではない者に対しては非常に厳しく、時に排除する側面があります。

 

仏教というものの特徴、お釈迦さまのお考えというのがわかるエピソードであろうと思います。
仏教を実践する者にとって身の引き締まる思いになる話しであったりしますが、上記のことは仏道を実践する世界において該当することになります。

 

お釈迦さまは基本的にはやさしく、愛にあふれ、人々の幸せを願う方でいらっしゃいました。ですが、修行ということになると、真面目に行っている者達が堕落しないように、細かい配慮をされていたのだと思います。修行の妨げになる者を入門させなかったのは、真面目に取り組むことへの妨げにならないための措置だったのでしょう。

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2012/06/01


四双八輩

天界では善行を積みにくいことはこの前も書きました。
中には、善業パワーをチャージするために、あえて人間に転生する神々や、仏道修行をして預流果(よるか)になって永遠の切符を手にする方々もいらっしゃいます。

 

預流果(よるか)の場合は、仏道修行をして天界へ行き、しばらく天界にいて再び、人間界に戻って仏道修行を行う方ですね。人間界と天界を行き来しますが、最終的に涅槃に至る、特別な存在だったりします。

 

預流果は、神々が意を決して人間に転生して善業エネルギーをチャージしようとすることと似ては居ますが、本質的に異なります。預流果は最終的には、輪廻のサイクルから脱出してしまいます。「サヨナラ輪廻〜」をしてしまうわけです。しかも「不退転」という絶対に道を外れることなく、必ず涅槃に入るという特進コースを歩む別格の生命でもありす。

 

預流果以外の神々の場合、人間になって善業エネルギーを充てんをしようとしても、リスキーな側面もあります。人間は、出来心で何をしでかすかわかりません。気がついたら、ヨっぱらって裸になって公園で逮捕されることもあるくらいです。

 

その点、預流果になりますと絶対安心。将来設計もバッチリの「これなら安心」プランです。

 

ちなみに預流果(よるか)のほかには、「一来果(いちらいか)」「不還果(ふげんか)」と呼ばれる方もいらっしゃいます。一来果とは、死後、天界へ一回行って、もう一回人間に転生してきて、人間のときに涅槃に入って「輪廻よサラバ」とされる方です。

 

不還果は死後、色界という天界の最高位である「浄居天」に生まれ変わって、そこでの生命が終わった後、自動的に涅槃に至る方です。もう二度と転生しないので「もどらない」という意味の「不還」なわけです。

 

仏教を修行して悟りを得た「預流果(よるか)」「一来果(いちらいか)」の方は、涅槃に入るまで必ず天界と人間界を行き来するようです。

 

ここまでは前々日の復習も兼ねています。

 

ちなみに、仏道修行で到達できるこれらの位階を「四双八輩」(しそうはちはい)ともいいます。

 

・預流果・・・人間と天界を7往復している間に涅槃に入る(ブッダになる)

・一来果・・・人間と天界を1往復して涅槃に入る(ブッダになる)

・不還果・・・浄居天という色界の天界に転生して神となり、そこでの寿命が終えた後に涅槃に入る。

・阿羅漢果(ブッダ)

 

というように、修行が進んでいきます。
最終的には阿羅漢としてのブッダになります。

 

ちなみに、ブッダ(阿羅漢)になれるのは人間だけです。
人間以外の生命にブッダはいません。

 

神々でも浄居天の神以外は涅槃に入ることができません。
実に、人間だけがブッダに至れる生命であったりします。

 

この際だった特質が、後世の大乗仏教でもよく言われる「仏性(ぶっしょう)」の本来の意味です。

 

この話し、次回に続きとしましょう。

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2012/07/14


仏性の本当の意味

人間だけがブッダになることができる。
このことを知っている方は少ないかもしれません。

 

しかしパーリ仏典などの原始仏教関連の書を読みますと、人間の特異性が分かってきます。実に、ブッダになることができるのは人間だけです。

 

浄居天の神も涅槃に入りますが、浄居天に入るためには、人間の時代に仏道修行をして不還果(ふげんか)という段階にならなければ入れませんので、結局、ブッダになれるのは「人間だけ」ということになります。

 

人間は本当に特殊な生命なのですね。心をダイナミックに変化させて善行もできます。神々ですら善業を重なるためにあえて人間に転生してくるくらいです。

 

善をなすことができる特殊な生命、それが人間です。
そうして仏道修行をして成長できるのも人間です。
人間だけがブッダにもなれるわけです。
ですから、この人間の時代にできるだけ善行をして、仏道修行をすることがおすすめなのですね。

 

そして人間だけがブッダになれる特質を後世の大乗仏教では、「仏性(ぶっしょう)」というようになりました。仏性という言葉や概念は原始仏教には出てきません。しかし原始仏典を読み解いていくなら、必然的に到達する観念でもあります。

 

 

仏性のあれこれ

 

仏性は、お経によっても呼び名が違ってきます。
「法華経」では、仏種(ぶっしゅ)といいます。法華経では「仏に成る種」という意味で使っています。
また「勝鬘経(しょうまんきょう)」では「如来蔵(にょらいぞう)」という言葉を当てています。意味は同じです。

 

この仏種にしても、如来蔵にしても、本来は、人間だけがブッダになれるという特徴をいったものでした。しかしこれが変容されてしまい、あたかも人間の中に「仏陀の心」があるかのように誤解され錯覚されてしまいました。

 

これは厳密にいえば間違った解釈です。仏性は、人間は修行をすれば仏陀になれるといった特質を言ったものです。人間だからといって全員、ブッダの心があるとは限りません。

 

そして一番よく知られているのが、後世に作られた「大般涅槃経」にある「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」です。これは仏性をかなり拡大しています。全ての生命の中に仏の心があると解釈されがちですが、これも誤りです。

 

もっともあらゆる生命は輪廻転生していますので、小さな虫であっても、いつか人間となって転生し、ブッダになる可能性もあるわけなので、その可能性を示唆した意味での「一切衆生悉有仏性」なら正しいといえるでしょう。

 

しかし全ての生命に「ブッダの心」があるとするのは拡大解釈のしすぎと言わざるをえません。

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2012/07/15


獅子吼

獅子吼。
「ししく」といいます。

 

聞いたことのある方もいらっしゃると思いますが、獅子吼(ししく)とは仏教修行者の理想として、お釈迦さまが推奨されていた姿勢でした。

 

獅子吼とは、獅子のように吼えること声量豊かに語る、雄弁に語ること、、、と思われている向きもありますが違います。雄弁に、大声で、流暢に、また説得力にあふれた話しの仕方ではありません。

 

獅子吼とは、相手が誰であろうとひるむこと無く、正しいことを言う勇気ある姿勢をいいます。百獣の王ライオンは勇敢な動物ですので、その勇気ある姿勢から「獅子吼」と言っています。

 

お釈迦さまは、獅子吼をする弟子を大変褒めていました。
王様や大臣といった人達や、ならず者に対しても、ひるむこと無く正しいことを話しをした報告を聞くと、お釈迦さまは大変褒めらました。

 

はじめもよく、中ころも良く、終わりもよく、整然かつ丁寧で上品な態度で、正しいことを勇気を持って話しをすることこそ「獅子吼」になります。

 

お釈迦さまも獅子吼を常日頃からされていました。「如来は嘘を言わない」存在ですので、問われれば、かならず本当のことをお話されました。

 

言えば、相手が落胆するから答えるのは控えたい、と数回断っても、相手が望むならあえて獅子吼して真実を語ったくだりのあるお経も残っています。

 

獅子吼は仏教では重視されていましたので、お釈迦さまのお弟子さん達も獅子吼をモットーとしていました。ですが時に異教徒から迫害されたこともあったようです。

 

実際、当時の仏教徒は、異教徒から白眼視されたり妬まれることもあったようです。お釈迦さまの一番弟子でもあったモッガラーナは異教徒によって殴り殺されています。

 

お釈迦さまご自身が、濡れ衣を着せられたり、根拠の無い批判をされたこともあったようです。経典を読んでいますと、人間の心は2600年前も現代もそう変わらないところがあるなあ、と思います。

 

正しさを貫くのは、心だけでなく、行動も、そして言葉もそうだったのでしょう。

 

もちろん正しいからといってもKYでなかったことは容易に想像できます。TPOを踏まえて、言う必要のあるときは勇気を持って話しをする。相手がどういう人物であっても、必要なときは勇気を持って、ひるむことなく獅子吼し、正しいことを言っていたのでしょう。

 

お釈迦さまから学ぶことは大変多いと思います。

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2012/07/16


無常・苦・無我とは

仏教の教えの中核には

 

無常・苦・無我

 

があります。
無常(むじょう)・苦(く)・無我(むが)

 

無常・苦・無我は仏教の教えの中でも重要です。四諦聖の実践で得られる「悟り」とは、「無常・苦・無我」を悟ることです。いわば、無常・苦・無我は悟りの内容そのものになってきます。

 

少し正確にいえば、無常・苦・無我を悟ったから「悟り」ともいえます。

 

では、無常・苦・無我とは一体、どういう内容なのでしょうか。
しばしば取り沙汰され議論もされます。

 

後世の大乗仏教になると哲学性を深め思想的な体系すら出てきますが、原始仏教での「無常・苦・無我」は明確です。

 

・無常・・・森羅万象の全ては「常に変化」している
・苦・・・森羅万象は苦である
・無我・・・森羅万象の全てには「永遠に固定されたもの(我)は無い」

 

というものです。
原始仏教ではこのように定義されています。

 

無常・苦・無我は「三相」ともいって、実は、同じ事をいっています。涅槃を得た真理に対して、三つの側面から表現したものが「無常・苦・無我」であるといいます。

 

また三法印としても表現されています。

 

諸行無常
諸法無我
一切皆苦

 

これも有名な表現ですね。
無常・苦・無我を端的に言いあらわしたものです。

 

無常・苦・無我とは、要するに、全ての物事は、

 

全てのものは常に変化していて一定ではなく(無常)
全てのものには永遠不滅の実在もなく(無我)
変化性である一切のものは苦である(苦)

 

ということになります。

 

非常にシンプルですね。原始仏教で説かれる無常・苦・無我は大変分かりやすくなっています。そうしてお釈迦さまは当時、このように分かりやすい言葉と表現で、人々に無常・苦・無我を説いていたわけです。

 

一切皆苦の謎

ところで無常・苦・無我のうち、時々問題になるのが「苦」です。
苦は、一切皆苦(いっさい-かいく)、一切行苦(いっさい-ぎょうく)とおった表現も取られます。
果たして本当に全てのものは「苦」なのでしょうか。
一切皆苦は本当なのでしょうか。
時々、議論されます。

 

結論からいえば「一切皆苦」で正しくなります。
なぜなら、三相、三法印は、「涅槃」という立場からの真理だからです。

 

我々凡夫の感性では「一切は苦である」と言われても分かりません。
「はて?」と疑問がわき起こります。
なぜなら、我々凡夫の感覚には「楽」もあるからです。

 

「人生苦もあれば楽もあり」ではありませんが、人間は、苦楽の両方を感じています。
ですから「一切皆苦」と言われてもピンと来ません。

 

ピンと来ない所か「いや、一切皆苦は誤り」と言い出してしまいかねません。

 

中には「一切行苦が正しい言い方である」「一切に執着するのが苦である」といった説明も出てきます。
ごもっともです。そう理解したい気持ちは分かります。

 

ですが、もしも「執着するなら苦である」とするなら、三法印、三相の成立に疑問が出てきます。なぜなら、無常と無我は、森羅万象の存在としての「あり方」について言っているからです。「執着するなら無常」「執着するなら無我」といった条件付けはありません。執着があろうがなかろうが一切は無常であり無我です。

 

ですが、苦だけが「執着すれば苦である」と条件を付けて説明理解するのは少々おかしい印象を受けます。真理を説明する上で、苦だけが条件付けで説明される成り立ち自体に違和感を覚えます。

 

森羅万象が「無常」「無我」であるなら、森羅万象は「苦」であるとしたほうが自然な相互関係になります。一つの真理を三方向から表現したまさに「三相」です。三法印です。苦だけを「執着があるなら苦である」とするのはおかしい印象を受けます。

 

もしも「執着するなら苦である」といったような説明にするなら、「執着するなら無常」「執着するなら無我」としなければ論理的にもおかしくなります。

 

しかし理屈で説明しなくても、「無常・苦・無我」そのものは、本当は涅槃を体験した者、つまり悟った者しか本当の意味は分からないのだと思います。

 

一切皆苦は、悟っていない凡人には違和感のある説明です。なかなかピンと来ません。
しかし涅槃に入った者の立場からすれば、一切皆苦なのだと思います。

 

だからこそ、四諦聖が「こは苦なり」と言っているのだとも思います。

 

全ては苦・厭離・不浄とする仏教

そもそも涅槃に至るための修行とは、執着を離れる修行の連続です。
感覚器官を通して感じられる、苦・楽・不苦不楽に対しても執着をすることなくひたすら観察していきます。ヴィパッサナ瞑想ですね。

 

苦しいことが起きてもそれにとらわれず(執着することなく)、楽しいことが起きてもそれにとらわれず(執着することなく)修行を続けていきます。

 

その結果、涅槃に到達するといいます。

 

また「苦」に近い言葉に「厭離(おんり)」があります。厭離もまた、仏典にしばしば登場します。五蘊を厭離して解脱に至るとか、如実知見によって厭離があり厭離によって離食があって解脱があるとか、厭離によって解脱する関係性が、経典では散見できます。

 

厭離とは、汚れた世界を厭い離れることをいいます。この世は「汚いもの」なので「厭離」するといいます。また関連して厭離のほかに「不浄」といった言い方もします。この世のものが不浄であるとする「不浄観」という瞑想法もあります。

 

このように、苦の他に、厭離、不浄といった言い方もあります。不浄に至っては不浄観もあります。苦については、四諦の公式にも入っています。一切は苦であり、厭離するものであり、不浄であるとしているわけです。

 

凡人の感性は、一切が嫌なもので離れるべきであるとか、汚らしいものという見方はしにくいものです。まずピンと来ません。ですから、一切皆苦も同じでしょう。真理を体験した者にとっては、一切皆苦なのでしょうが、凡人・凡夫には全てが苦であるとは実感できません。

 

凡夫には理解のできない涅槃の世界

そもそも無常や無我ですら、凡夫は本当は実感できていません。
科学の発達のおかげで、物質が常に変化していることや、素粒子が運動していて固有体としての存在は無いことが分かっているに過ぎません。

 

科学の助けがなければ、鉱物を見たなら「変化していない」「固有のものとして存在している」と判断します。苦も同じでしょう。

 

将来、科学がもっと発達すれば、変化相の存在は本質的に苦であるということが分かる日がやってくるかもしれません。いえいえこれは単なる想像であり妄想ですが。

 

しかし時代がどう変わろうとも、進歩しようとも、涅槃は実体験するものです。悟って涅槃に入るという実体験の末、無常・苦・無我を理解するのでしょう。

 

涅槃を体験しない限り、無常・苦・無我の本当のところは理解できないのではないかと思います。ですので、無常・苦・無我のことは一応、経典に記載されている通りに理解し、より本質的なことは棚上げしておくことも一つの姿勢ではないかと考えます。

 

話しが長くなりましたが、無常・苦・無我は、従来の三法印の通りで、文字通り

 

諸行無常
諸法無我
一切皆苦

 

で良いのではないかと考えます。

 

涅槃を体験した者だけが理解できる真理なのでしょう。

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2012/07/28


正語(しょうご)〜心を浄める丁寧かつ上品な言葉使い

今日、近くの図書館へ行ったところ50代半ばの男性が、大変丁寧に応じていただけました。品の良さそうな方で、言葉も丁寧です。まだここの図書館に不慣れな感じですので、もしかすると何らかの事情により、この図書館に来たのか、あるいは転職されたのかもしれません。

 

本を借りて返却しただけのわずか数分の対応でしたが、とても良い対応で気持ちがよくなりました。なんだか有りがたい気持ちにもなりました。

 

丁寧な対応、上品な言葉は、心がきれいになりますね。
そうしている本人もさることながら、受けているこちら側も気持ちが清らかになります。

 

態度や言葉は、やはり丁寧で品を大切にしたほうが良いと、改めて思ったものでした。

 

 

正語は八正道の一支

ところでお釈迦さまが菩提樹の元で悟りを開かれたとき、悟りに至る方法として「八正道(はっしょうどう)」を再発見されました。
※再発見といいますのは、過去においても覚者(ブッダ)が八正道を説いているからですね。過去にもブッダがいて(過去七仏)、皆、同じダンマを説かれています。)

 

八正道は仏教の根幹を成す実践法でして、仏道修行の全てが集約されている実践行でもあります。
八正道は、後に「七科三七道品」といって7種類と37項目から成る修行方法にも分割されますが、仏道修行の基本であり根幹は「八正道」になります。
もっとも八正道は三学(さんがく)を八支にしたものでもあります。

 

八正道とは

 

正見(しょうけん)・・・物の見方
正思(しょうし)・・・心・意志
正語(しょうご)・・・言葉
正業(しょうごう)・・・行い
正命(しょうみょう)・・・生活・仕事
正精進(しょうしょうじん)・・・努力の仕方
正念(しょうねん)・・・気付きの瞑想
正定(しょうじょう)・・・禅定・サマーディを得る瞑想

 

といった8項目からなる実践ですね。
これら8項目のそれぞれを「正しくする」実践行です。

 

そして八正道の中に「正語」が入っていますね。

 

 

正語とは?

では正語とは具体的にどういう実践なのでしょうか。
一言でいえば正語とは「正しい言葉使い」をいいます。

 

正語とは、

 

・不妄語(ふもうご)・・・嘘を付かない
・不綺語(ふきご)・・・つまらないことや、お世辞が過ぎることを言わない
・不両舌(ふりょうぜつ)・・・仲違いさせることを言わない。人間関係を悪化させることを言わない。
・不悪口(ふあくご)・・・粗野であったり乱暴な言葉を使わない

 

と言われています。

 

正語の内容は、実は「十善戒」に含まれています。在家が実践する戒律にもきちんと含まれているのですね。十善戒のことはこちら

 

ですが、言葉の使い方がぞんざいで、礼節を欠いてしまうケースがあります。
中には、こういうのが習慣化している方もいらっしゃいます。
さらには、丁寧や上品な言葉を毛嫌いして、品性の無い言葉使いに親近感を感じる方もいます。
最近はテレビの影響も大きいでしょう。汚い言葉を使うことが「親しみの表れ」と勘違いし、丁寧で上品な言葉を使う人を「親近感が無い」といって批難することさえあります。

 

人間の感性は人それぞれですが、殊、仏教を実践する者に関していいますと、言葉は丁寧で上品で、なおかつ思いやりがあって正しいことを語ることが望ましくなります。なぜならこれらの実践そのものが「正語」の実践になるからです。また「十善戒」の実践にもなるからです。人が幸せになれる方法です。

 

仏教では、心・言葉・行為を汚くする者を「愚者」と呼んでいます。「愚か者」です。仏教を実践する者は、愚者であってはなりませんね。また愚者と慣れ親しんではならないとお釈迦さまは説かれます。

 

もちろん形式にとらわれてはいけませんが、しかし「形」は大切です。
相撲にしろ柔道にしろ、まずは「型」から入ります。
型を通して、基本が習得もされます。
このことは、あらゆる習得や修行にも通じることですね。
型は大切です。

 

ですので、「正語」にしろ「十善戒」にしろ、まずは「形」から入っていくいのが実際的でもあろうかと思います。

 

このように正語とは、悪い言葉を避けて、思いやりをもって本当のことを話、丁寧かつ上品な心で言葉を使うことが本質になってきます。
そういうことを仏教では「正しい」としているわけですね。

 

 

正しい言葉とは?

ところで、仏教ではよく「正しい」ということをいいますね。
仏教でいう正しいとはどういうことなのでしょうか。

 

仏教では「正しい」と使った場合、基本的に「きよらかさ」を意味します。
言い換えますと、「煩悩が無い」「煩悩が少ない」「煩悩をすくなくする」、これが「正しい」になります。

 

ですので、「正しい言葉使い」とは、煩悩ね根付かない、煩悩を生起させない、相手の煩悩も生じさせない言葉の使い方を意味します。

 

仏教の善悪については、こちらで詳しく述べています。

 

このように書くと「なんだか、難しいなあ」と思われるかもしれません。

 

ですが、「心をきよらかにして言葉を使う」ということになります。

 

心を清らかにする、ということです。
心が澄んだ状態で言葉を発しますと、自分も、聞いている相手も気持ちがよいものです。

 

「なんだか清々しく気持ちのよい感じ」、それが「心の清らかさ」の印象です。

 

丁寧で上品な言葉使いは、心が清まった状態や思いやりから発せらる言葉使いです。

 

もっとも、慇懃無礼や、皮肉交じりで丁寧さや上品ぶって取り繕うケースも見られますが、こういうのは心が汚れていますので、決して「正語」にはなりません。

 

心が良い状態から発せられた言葉が「正語」になるわけですね。
ですから、必然的に、丁寧で上品な感じの言葉が多くなります。

 

正語は、聞いていて気持ちの良いものです。
言葉をよくすることで、人間関係もよくなります。
まさに「正語」は、幸せになれる方法ですね。

 

今日の図書館の職員の対応ではありませんが、丁寧で上品、うるわしい対応は、本当に心が洗われる感じがします。常日頃から、正語でありたいですね。

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2012/10/12