無常・苦・無我とは

無常・苦・無我

仏教の教えの中核には

無常・苦・無我

があります。
無常(むじょう)・苦(く)・無我(むが)

無常・苦・無我は仏教の教えの中でも重要です。四諦聖の実践で得られる「悟り」とは、「無常・苦・無我」を悟ることです。いわば、無常・苦・無我は悟りの内容そのものになってきます。

少し正確にいえば、無常・苦・無我を悟ったから「悟り」ともいえます。

無常・苦・無我とは何か?

では、無常・苦・無我とは一体、どういう内容なのでしょうか。しばしば取り沙汰され議論もされます。

後世の大乗仏教になると哲学性を深め思想的な体系すら出てきますが、原始仏教での「無常・苦・無我」は明確です。

  • 無常・・・森羅万象の全ては「常に変化」している
  • ・・・森羅万象は苦である
  • 無我・・・森羅万象の全てには「永遠に固定されたもの(我)は無い」

というものです。原始仏教ではこのように定義されています。

無常・苦・無我は「三相」ともいいます。三相は同じ事をいっています。涅槃という真理を三つの側面から表現したものが「無常・苦・無我」であるといいます。

三法印とは無常・苦・無我

無常・苦・無我はまた三法印としても表現されています。

諸行無常
諸法無我
一切皆苦

これも有名な表現ですね。無常・苦・無我を端的に言いあらわしたものです。

無常・苦・無我とは、要するに、全ての物事は、

  • 全てのものは常に変化していて一定ではなく(無常)
  • 全てのものには永遠不滅の実在もなく(無我)
  • 変化性である一切のものは苦である(苦)

ということになります。

非常にシンプルです。原始仏教で説かれる無常・苦・無我は大変分かりやすくなっています。そうしてお釈迦さまは当時、このように分かりやすい言葉と表現で、人々に無常・苦・無我を説いていたわけです。

凡夫には理解のできない涅槃の世界

一切皆苦はわかりにくいといいます。確かにわかりにくい。

けれども無常や無我ですら、凡夫は本当は実感できていません。一応の理解はできますが、本当のところは悟らなければわかりません。

せいぜい科学の発達のおかげで、物質が常に変化していることや、素粒子が運動していて固有体としての存在は無いことが分かるに過ぎません。

科学の助けがなければ、鉱物を見たなら「変化していない」「固有のものとして存在している」と判断します。苦も同じでしょう。

将来、科学がもっと発達すれば、変化相の存在は本質的に苦であるということが分かる日がやってくるかもしれません。いえいえこれは単なる想像であり妄想ですが。

しかし時代がどう変わろうとも、進歩しようとも、涅槃は実体験するものです。悟って涅槃に入るという実体験の末、無常・苦・無我を理解するのでしょう。

涅槃を体験しない限り、無常・苦・無我の本当のところは理解できないのではないかと思います。ですので、無常・苦・無我のことは一応、経典に記載されている通りに理解し、より本質的なことは棚上げしておくことも一つの姿勢ではないかと考えます。

話しが長くなりましたが、無常・苦・無我は、従来の三法印の通りで、文字通り

諸行無常
諸法無我
一切皆苦

で良いのではないかと考えます。

涅槃を体験した者だけが理解できる真理なのでしょう。