前世の業の正しい理解

(つづき)
ですから、当たり前の因果関係までをも「過去世の報い」とするのは考えすぎになります。過去世の報いとは、一生懸命やっても報われないといった理不尽な因果関係において見られることが多くなります。

通常は、因果関係の通りに作用します。やればやっただけ、成果が出てきます。成果が出ず、その原因を精密に分析し精査しても分からない場合、その時初めて「前世の業かもしれなんなあ」と考えるので丁度よいのです。

もっともスタートラインそのものに違いがあるのは事実です。これらには、過去世における業が関与しています(異熟)。

過去施の業が関与しているのは「理不尽さ」が目立つ場合です。明確な因果関係の原則を超越しているケースに限定されると考えていいでしょう。

正しいやり方でいくら一生懸命にやっても全く報われないとき、それは過去施の行いの結果が関与していると思われます。反対にほとんど努力しなくても願いがかなってしまうのも、過去施の良い行いが関与しています。

ですが、努力がムダという意味ではありません。また努力が虚しいということではありません。業による影響はいずれ消えていきます。そういう性質のものです。

何かにすがったり拝んだりしなくても、業は必ず費えて消えていくものです。ですから、原則的に、人生は前向きに、努力を心がけて生きていく方が正解になります。またそういう生き様が新しい業となって、来世にも良いかたちで影響してきます。

あまり業を恐ろしがる必要は無いのですが、業を正しく理解することに慣れないうちは恐怖や不安のほうが強くなるかもしれません。

正しいことをすれば、必ず、正しい結果が訪れます。良い心で行えば、必ず、良い心の状態になります。

当たり前のことですが、この当たり前のことの重みが分かると、人生観や価値観、世界観が変わっていきます。