仏教

仏教の善悪エントリー一覧

善と悪

善と悪について、仏教(原始仏教)ではどうとらえているのか、それについて紹介してみます。

 

「善と悪」
いろいろな定義や考え方、とらえ方がありますね。
しかし仏教では単純明快です。それは、

 

煩悩が無いこと(弱いこと)

 

です。

 

明快です。
仏教では、煩悩が無ければ無いほど、「善」としています。
煩悩がないこと、つまり、心が浄まっているほど善になるというわけですね。

 

反対に悪とは、煩悩の強いこと、心が汚れていることをいいます。

 

仏教における善悪のとらえ方は、実は世界中にある宗教や思想の中においても大変明快であり、あらゆる事象に照らし合わせても納得のいく基準です。

 

日本では、儒教や道徳の影響がありますので、社会や世間に貢献する「度合いの高い行為」を「善」ととらえる傾向があります。いわゆる「徳」の概念です。確かに、社会貢献や奉仕的な活動は尊く、これも善行です。

 

ですが、仏教では、より掘りさげて、善行為の本質へと迫ります。
仏教が説く善行為の本質とは「どういう心で行為をするのか」といった動機の部分です。

 

分かりやすくいいますと、たとえば、社会貢献をするにしても、本当は名声が欲しいからといった動機があれば、その行為の善は半減してしまうということです。

 

反対に、社会貢献といった大きな行為はしないけれども、家族や友人の幸せを心の底から願い、献身的にお世話をするなら、この行為は素晴らしい善行為になるということです。

 

動機に不純なものがあると、善行為の価値は目減りしていくというものです。
攻撃的な心、欲望に満ちた心、落ち着きの無い心など、煩悩の盛んで汚れた心による行為は、善行為とは言いがたくなる(労多くても効は少ない)というのが仏教の立場です。
量よりも、質を重んじるのですね。

 

一般的には、社会や他人への奉仕や貢献の「量が多い」と、大きな善行為をしたと思わています。
けれども仏教では、そうではないということです。

 

質を重視するということは、行為をする際の「心のあり方」を問ことを物語っています。
事実、仏教は、「心の清らかな状態で行う行為」をすべて、善行為と言っています。
社会貢献とか人助けとか、そういう「外見」「見た目」「量」「規模」ではなく、「心のあり方」です。

 

このことは初めて知る人の中には、衝撃を覚えるほどインパクトがある判断基準でしょう。

 

仏教の善悪論を「動機論」と名付ける専門家もいます。
善行為の「結果を重視」するのではなく、「動機を重視」するのが仏教の善悪の基準というのです。

 

実際に原始仏典では、これを説くお経も多くあります。
中には、心を込めて座席を提供する行為を続けた結果、天界へ生まれ変わった、という話しが掲載されたお経もあります(後世に作られたパーリ仏典ですが)。

 

この仏教の善悪論を、世の中の多くのことに照合すれば、スッキリと善悪を判断できます。小学生でも中学生でも分かります。いや、子供のほうが正しく判断できるかもしれません。

 

では、具体的な事例を見てみましょう。
そうすれば、仏教の善悪基準がより理解できると思います。
つづく

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2012/05/19


偽善を見破る仏教の善悪論

仏教の善悪の基準。(こちらからの続き

 

ちょっとここで分かりやすい一例を挙げてみましょう。
善行為に関連して、判断に悩みやすいケースがあります。
たとえば「親切の押し売り」ですね。

 

相手は、親身になって親切してくれるのですが、押しつけがましさを感じてしまい、しまいにいらだつ気分になる経験を、誰でもしたことはあるでしょう。
これは善行為なのでしょうか?

 

相手は、確かに親身にはなってくれているのでしょう。そのお気持ちは分かります。
ですが、こちら側の意向など全く眼中になく、一方的に押しつけてくる感じです。
「いや、いいですから」とやんわり断っても、しつこく行おうとしてきます。

 

何かの勧誘に近い感覚ですね。
ですが、「相手も良いことをしたいので、まあ、正しいのだろうか?・・・」
こう悩む方もいると思います。

 

しかし、このような親切の押し売りは、悪行為になります。
もっとも悪行為と100%は言い切れませんが、悪行為の要因の多い行為になります。
本当の意味での善行為とは言えないでしょう。

 

善いことだからといって、相手が望んでいないことを押しつけることは、もはやエゴですよね。
こういうのは、偽善ともいいます。
実は、動機がエゴになっていることが多いのですね。あるいは、無知(学習不足)です。
本当に相手の幸せを願うのなら、こういうエゴを動機とした行為はしなくなります。

 

もう一つ事例です。
善い行為だからといって、家族や周囲に苦労を背負わせて、一生懸命になり過ぎる人もいます。
「善いことだからドンドンやりましょう」という理屈ですね。

 

しかしこれも悪行為です。
もちろん100%悪行為とは言えませんし、状況によっては判断も違いますが、心を汚しながらの行為は、悪行為になっていきます。ですのでせっかくの貢献も、効果は半減するでしょう。
大抵、無理な行為をする根底には、強すぎる欲や執着が絡んでいることが多いものです。

 

こういった行為は「心が汚れている」「煩悩が盛ん」であるので、悪行為になってしまいがちです。一見すると正しいように見えて、そうではないことが少なくありません。
しかも巻き込まれる周囲も大迷惑です。また往々にして、こういった行為は、トラブルも招きがちです。
「労多き割りには効少なし」ですね。

 

上記の2例は、新興宗教でよく見られますが、一般社会でも見受けられます。
これらはもはやエゴとなっていて、エゴを動機とした行為(偽善)になります。

 

結局、「量」「結果」「形」を求めるから、このようになるのでしょう。
量や結果を求める善行為ではなく、質の高い善行為(動機が清らかな善行為)を心がけることですね。

 

また、興奮して一種のお祭りのようなノリで行うのではなく、心を落ち着けることが大切です。落ち着いた心、リラックスした感じは大切です。こういう良い状態の上で、相手の立場なりを理解しながら行うのが正しくなります(善行為です)。またこれができるようになるのが理想ですね。

 

この考えを推し進めていきますと、無理なことはできなくなります。
自分ができる範囲以内での行為をするようになります。
結果的に中庸を得たバランスのある生活にもつながっていきます。

 

以上が、仏教の善悪の考え方です。
100%完璧に実践はできることではありませんが、善悪の基準として知っておくことは有益ですね。

 

仏教の善悪論は大変優れていると思っています。
つづく

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2012/05/20


善悪の基準

こちらからの続きです。

 

善いことだからといっても、その様子を見て「何か変だなあ」と、本能的に違和感をおぼえるものがあるでしょう。たとえば募金活動で善いことをしていながら、その反面、詐欺紛いなことをしているケースです。「おかしいぞ」と違和感が出てきます。

 

仏教の善悪論で判断すれば、スッキリと善悪を解明できます。

 

善いことへの結果や量、外見や形ではなく、動機や心の有様(質)が良いか悪いか、です。

 

一般的には、結果や量、外見や形で善い悪いと判断されがちです。ですが仏教では心の有様を重視し、量よりも質を重んじます。

 

良い心の有様とは、心が清まっていることです。怒りや貪りが少なく、落ち着いてリラックスし、朗らかで、言葉も対応も丁寧な姿勢でしょう。

 

反対に、心が汚れているのは悪い心です。怒りや攻撃性に満ち、本心では野心があり、言葉も粗暴で、態度もぞんざいで、落ち着きが無く、騒がしい状態です。

 

もちろん、人間ですので、100%、心を清らかにすることは難しいでしょう。
また、動機が大事だからといって、量が全く関係が無いと言うことはありません。
量も大切でしょうが、それ以上に質(動機・心の有様)が大切だということです。

 

ですので、大規模な社会貢献をするよりも、小さくても身の回りで心を込めた親切のほうが、実は大きな結果を招きます。量ではありません。質(動機・心の有様)のほうが何百倍、何千倍も尊くなります。

 

もちろん、量も多く、動機も優れているのは理想的です。
しかし現実は、規模が大きくなれば矛盾や問題も出てきて、トラブルが出てくることが多いものです。ですので、現実的な観点からいえば「自分ができる範囲以内で行う」ことがお勧めになります。

 

原始仏教は大きな教団化をしないのも、おそらくこういった点と関係があると推測できます。

 

こういったことを示唆する教えは中部経典「施分別経」などに詳しく載っています。
仏教の善悪論は善悪の本質に迫ります。

 

仏教の善悪基準の物差しがあれば、真に正しい行為の判断・チェックができるようにはなると思います。
そしてこの考えが腑に落ちますと、価値観や人生観、世界観も一変します。
つづく

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2012/05/21


人生観を変える仏教の善悪論

4回にわたって善行為について熱く語ってきましたが^^;、仏教の善行為の判断基準は大変重要だと考えるからですね。

 

一般的には、ボランティアとか、社会貢献が善行為と思われていますが(確かにそうではありますが)、決してそれが優れた善行為とは限らないということなんですね。

 

考えてみれば分かると思います。大規模にできる人がより大きな善業を積めるとなれば、遠慮しがちな方とか、物静かな方は善ができにくいとなってしまいます。

 

見た目のすごさや量などを基準にするなら、より多くの量をやって人が優れているという理屈になってきます。偽善もまかり通り、偽善が「善」のカテゴリーに入れられてしまうことも出てきます。やはりこれはおかしいものです。量を基準する考え方は、総じておかしな所がでてくるものですね。

 

パーリ仏典にも出てきます。ある大富豪が、毎月、盛大な供養祭を行っていました。しかし、僧侶達は「そんなに豪勢なことはしないで、適度にしなさい」と苦言を呈します。しかしその大富豪は忠告を聞き入れず、派手で盛大な供養祭を続けたようですが、やがて財を使い果たし、しかもそれほどの功徳(くどく:結果)も得られなかったといいます。

 

あるいは、悪心を起こしながら、見た目は善行をしていても、餓鬼道に墜ちた話しもあります。

 

一方、阿羅漢にサジ一杯のおかゆを心を込めて供養した人が、7回の生まれ変わりのすべてが大幸運となったことが経典には記されています。

 

量ではなく質が大切なことは明らかです。
仏教では「量ではなく、質(心の有様や動機)が大事」と鋭く指摘します。規模や量、外見ではない。心を浄めた行為であるなら、言葉が少なかろうが、なんであろうが、尊い善行為へとなっていくということです。

 

このことから、善行為は、何もボランティアとか社会貢献といった形を取らなくても、日々の生活の中でできることが分かります。家族の間で、職場で、学校で、いつでもどこでも、その気になれば、素晴らしい善行為をすることができます。

 

調子の良いことを言ったり、騒がしく、軽率な態度でボランティアをするよりも、落ち着いて朗らかな生活を過ごし家族を愛する普通の方のほうが優れた善行為をしています。

 

仏教の善悪の考え方は人生観を変えることでしょう。
このことが腑に落ちると、人生観、価値観、そして世界観も一変するようになります。規模や量を追及することが無くなり、量はそこそこあればヨシとして、質を高める人生観になるでしょう。

 

そうして日々、何気なく行っていることが、素晴らしい行為になることに気付かされます。呼吸をする行為すら善行為になります。

 

そうです、瞑想が奨められるのも、それが善行為だからです。
瞑想が素晴らしいのは、善行為ができる時間になるからなのですね。

 

もっとも、そうだからといって在家が、瞑想ばかりして働かなければ、生活上、問題も出てきます。バランス感覚が必要になるでしょう。これは言うまでもありません。

 

また質が大切だからといって、量はまったく関係無いということではありません。もちろん量も大切ですが、それよりも質のほうが大切ということです。

 

心を浄める行為が善行為である、というのが仏教の基本的な考え方ということですね。

 

仏教の善悪論に基づいて行動を取ることが多くなれば、量を追及する拡大路線という資本主義的な発想ではなくなるでしょう。

 

中身、質を大切にするなら、社会や家族、人間関係は、必要以上に無理をしたり、どこかにしわ寄せが来ることが少なくなり、より安定してバランスも取れてくると思います。

 

仏教が素晴らしいと思う要因の一つが、この善悪の考え方です。

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2012/05/22


汚れた心での人助け・善行

善行為とは「心を浄めた状態の行為や、動機とする行為」ということは、4回にわたって書きました。
悪行為とは、その逆で、汚れた心による行為や、動機とする行為ですね。

 

では、もしも、汚れた心で人助けや社会貢献をした場合、どうなるのでしょうか。
興味のある話しかもしれませんね。

 

ちょっと怖い話しになるので、書くのもためらいます。またシリアスな話しが続いていますので、読んでいる方はひいてしまっているかもしれません^^;ですが、知らないと知っているでは大変な違いが出てきますので、少しだけ書いてみたいと思います。

 

汚れた心で行った場合、相手に与えた何らかの物事は必ず返ってきます。いわゆるカルマの法則ですが、カルマというのは、必ずかえってきます。このことはパーリ仏典にも数多く記載されています。いかなる人もカルマから逃れることができません。

 

ですので、仮に汚れた心で(相手をバカにしたり、憎みながら何かを与えたとしても)、その見返りは必ず戻ってきます。

 

しかし、見返りは少ないといいます。
一番良いのは、きれいな心で施しをした場合になります。
こうすると、何倍、何十倍、何千倍となって自分に戻ってくるとがパーリ仏典には書いてあります。

 

ところで、怒りや憎しみ、騒がしい心の部分はどうなのでしょうか?これも戻ってくるのでしょうか?
はい、これもきちんと返ってくるそうです。
苦痛となって返ってくるといいます。
相手に嫌な思いをさせたなら、かならず、自分にも嫌な思い(苦痛)として戻ってきます。

 

仏教ではカルマとは、「心で受けるもの」としています。
相手に何か物を授けたなら、もちろん物として巡ってきますが、その与える際の心の有様も戻ってくることと言われいます。そうして、ここにポイントを置いています。

 

誰かに怒りながら「ほら!くれてやる!」とすれば、いつかどこかの生涯で、同じように与えられながらも苦悩に陥ることが出てくるようです。
分かりやすい例でいえば、良い所に就職したり、お金持ちになっても、人には言えない大変な苦労を背負うとか。そういう矛盾に悩むようになります。

 

ですので、できるだけ心を穏やかにして、明るく、落ち着いた様で物事を行ったほうがいいわけですね。なぜなら、そういう心になれる見返りが来るからです。

 

少々、物に恵まれなくても、心はいつもハッピー、そういう状態でもいられます。「幸せ」とは、心が感じるものです。物や人間関係でも幸せ感が得られますが、それを感じるのは心です。

 

たとえ物や人間関係が豊かであっても、かえってこれで苦労するケースもあります。この原因は、汚れた心で布施(与える行為)を過去世において行っていたからです。ですので、同じことは繰り返さないほうが良くなります。

 

明るく、やさしく、落ち着いた心で日々過ごすことを基本とするなら、後の世の生涯は、基本的に穏やかでしょう。これは賢者の智恵です。

 

この辺りは、仏教の善悪論に通じます。

 

攻撃性、暴力性、粗暴、貪欲、騒がしい、落ち着きがないといった心は危険です。
死後の転生先にも関わってくるようです。
畜生界、地獄界、あるいは天宮餓鬼界という世界へ転生していくようです。

 

ちなみにお笑い芸人のようなことも危険のようです・・・。
あまりこういうことは書きたくないのですが、地獄へ行くとあります。
まあ、あまり教条主義的になってはいけませんが、一応、そのようにパーリ仏典には記されているということですね。

 

現代のメディアに毒されない生き方をおすすめするのも、こういった理由もあるからです。

 

ちなみに誰だって、苦ありゃ楽ある人生です。人間とは、そういうものです。ここでは原則論を述べていますので、その辺りはご了承を。

 

今回の話しは、怖すぎるところもありますし、気分の良い話しではありませんので、この辺でやめておきましょう・・・。

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2012/05/23


お笑い芸人の死後の行き先と輪廻〜聚楽主相応「歌舞伎聚楽主」

昨日の記事(汚れた心での人助け)は、カルマとか、転生に関する話で、不安や恐怖を抱きそうですので途中で止めましたが、続きを希望される方がいらっしゃいましたので、そこで、続きを書いてみたいと思います。

 

できるだけ不安や恐怖を持たれないように注意して書いてみたいと思います。

 

原始仏典の「相応部・聚楽主相応」の中に「聚楽主相応(じゅらくしゅ-そうおう)という経典があります。この中に「歌舞伎聚楽主(かぶき-じゅらくしゅ)」というお経があります。

 

ここでいう歌舞伎聚楽主とは、今でいうところのお笑い芸人などの芸能人やタレントです。経典中「真実を真似て、人を笑わし」とあります。これは、物真似タレントや、演技の上手な芸能人、お笑いタレントであることが、文脈から分かります。

 

お経での話しは次の通りです。
ある芸人が「芸人は、人を笑わせ楽しませるので、死後、天界(神さまの世界)へ生まれ変われると言われていますが、どうなのでしょうか」とお釈迦さまに訪ねます。お釈迦さまは「そういうことを聞いてはなりません」と三度、答えを避けたといいます。

 

それでもその芸人は、死後の行く先を聞いたのでお釈迦さまは「仕方ありませんね・・・」と重たい口を開き、「人を笑わしたりする芸人は、死後、地獄の世界へ行きます」と語り始めます。

 

その理由は、芸人は、見ている人々の感情をゆさぶり、刺激して、怒りや欲望を強める気持ちを作り出すからだといいます。簡単に言ってしまうと、芸人は、見ている者の煩悩を強めるから、というのが理由です。

 

これはショッキングな話しです。

 

現代でもテレビには、毒舌を吐いて笑いを取ったり、下品な言動、大騒ぎをしたり、人を小馬鹿にすることを言って笑いを取るタレントが多く出ています。また殺人や不倫、暴力を扱ったドラマも多く、人を不快にするために役者もがんばって演技をしています。あるいは、調子の良いことを言ったり、嘘も平気、人のご機嫌を取ることばかりしている政治家。

 

テレビを付けると、こういう人達が多いですね。もちろん、そうではない方々もいますし、番組によっては心が洗われるものもあります。ですが、上記のように、見ている者の心を曇らせるものは多いでしょう。

 

原始仏典の歌舞伎聚楽主を読むと、テレビに出ている人達の多くが悪行為であることが分かってきます。このことは、初めて聞く方は、相当なショックを受けるかもしれません。少なくとも驚くと思います。

 

しかしお経で言われなくても、テレビやマスコミに不快感を抱いている方は少なからずいらっしゃいます。テレビはほとんど見ないという人も昔からいますね。

 

ある禅僧は「一切、テレビを見ません」と言われます。この禅僧に限らず、テレビやマスコミの本質を見抜いている方々は、ほとんど見ません。本能的に心が汚されることが分かっているからですね。

 

テレビやマスコミの流すメディアの影響を受けることは多いものです。これらの媒体は、洗脳相装置のように働き、見ている者の煩悩を強めてしまいます。できるだけ、こういったメディアからの影響は受けないように注意したほうがいいでしょう。

 

テレビの影響を受けてしまうと、人を小馬鹿にしたり、からかったりすることを親しみであると勘違いするようになったり、暴力や不倫といった悪行為も「別にいいじゃん」と認めるようになったりして、悪い習慣や思考が身に付いてしまうことも出てきます。

 

さらに、おそろしいのは、これらに慣れてしまい、感性が鈍ってしまうことです。こうなると、善悪をかぎ分ける感性そものは鈍り、「癡(ち)」を増やし、明晰な判断力や洞察力が得られなくなっていきます。一言でいってしまいますと、「頭が悪くなっていく」ということです。判断能力も適切でなくなりますので、ますますメディアに洗脳もされやすくなっていきます。

 

芸能人は人気稼業、テレビに出ているから、高額所得だから「それは素晴らしい」と安直にとらえると、大変なことになります。姿や外見、所有している物の量の多さに惑わされることなく、心の有様を観察して、真実を見抜く目を養いたいものです。

 

怒りや嫉妬、貪欲や落ち着きの無さ、粗暴、短絡性、こういった心を汚すことが習慣となってしまいますと、死後の転生先にもよろしくない様子です。

 

今回の話しは、ちょっとショッキングな内容だったかもしれません。ですが、聚楽主相応経は、心をきよらかにする生活がいかに大切かが分かるお経だと思います。

 

ちなみに、聚楽主相応には、もっとインパクトのあることが書いてあります。人の死後に関することですが、こちらも驚くことが書いてあり、常識を根底から覆す教えとなっています。また今度、ご紹介するかもしれません。

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2012/05/24


テレビの悪影響

現代は、テレビなどのメディアの影響をかなり受けています。このことは何度か述べています。しかも無意識のレベルまで影響を受けています。かくいう自分も受けています。

 

テレビなどによるネガティブな感情の刺激を受けても、それが「面白い」と感じてしまうことは危険です。

 

テレビの場合、面白おかしく味付けしていますので、ネガティブな刺激に対して鈍感となり、悪に対して鈍感となってしまう点にもリスクがあります。一種の巧みな洗脳が擦り込まれていることに、気付かないことが多いものです。

 

あるいは鈍感になったことを「寛大になった」「許せる」「何とも思わない」といった錯誤をすることも出てきて、メンタル的には実はよろしくありません。この状態、本当は、単に心がマヒしたいるだけなのです。

 

心が硬直化し、鈍感になっているのは、「癡(ち)」という頭が悪くなる状態に通じます。適切な判断力や洞察力を失いますので、よろしくありません。しかし心がマヒした状態を「寛容になった」と勘違いすることが実は多いのです。

 

殺人や不倫を扱ったドラマを見ると心が曇るでしょう。もしも心が曇ることが無ければ、かなり洗脳が進んでいます。

 

悪い刺激を受けると心は緊張したり興奮します。
しかし油断していると、この緊張や興奮が「楽しい」「面白い」と錯覚してしまいます。
あるいは心のマヒを起こします。

 

たまに見るなら問題は少ないと思いますが、日頃から、こういう番組を見ていますと、心が悪くなっていくようです。この影響は想像以上に大きいようです。

 

修行が進んでいる比丘(僧侶)はまずテレビなどは見ません。「心がざわつき、気持ち悪くて見ていられない」といいます。そうして「できれば見ないほうがいい」といいます。テレビの影響を受けて、心がざわつき、誤った価値観を持った方が多いといいます。

 

2600年前のインドはカースト制という身分の違いやバラモン教という絶対的な宗教が、心に大きな影響を与えていました。

 

現代の日本は2600年前のインドと違って、マスメディアの影響や洗脳、歪んだ教育による歪んだ価値観や人生観を形づくる影響を受けています。これらのことに加えて、民族としての日本人としの気質も考慮する必要があるでしょう。

 

2600年前のインドとは異なる時代背景が現代にはありますが、そういう中でもテレビの悪影響の強さがあります。ですので、その影響と症状の指摘はどうしても避けられなくなります。

 

まずはテレビを見て、自分の心がどう反応しているのかを観察して見るといいでしょう。いかに自分が影響を受けているかに気付くと思います。いろいろな気付きが得られると思います。

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2012/05/26


ボランティアと善行

以前に書いた記事を読み返しますと少々誤解を受けそうなので補足いたします。

 

善行は、心の有様や動機が大切であると書きましたが、ボランティアや社会貢献があまり意味が無い、ということではありませんね。

 

どちらが「大切か」ということになります。

 

一般的には、実績や姿や形、量の多さなど、見た目で判断されることが多く、善行に関しても同じように扱われることが多いのですが、仏教の善悪の基準に照らし合わせると、「それは違いますよ」ということです。

 

「善行」といえば「ボランティアをしないといけなんですよね」「社会貢献をしないとダメなんですよね」と思われるケースが多いのですが、決してそうではないということですね。

 

基本は、「心をきよらかにする」ということになる、ということです。

 

ここを理解できると、無理にボランティア活動としなくても、日々の生活の中で善行ができることに気付くようになります。何気ない行為や、家族や友人、知人へのさりげなくうるわしい言動も善行になることに気付くわけです。

 

普段の生活の中から、善行ができる、ということなんですね。

 

実際、ボランティアとかが苦手、という方もいらっしゃいます。性格や気質によって苦手・得意はあります。ですので、それぞれができることをやっていくのが大切です。

 

また、こういう基本的な善悪の見方をするようになれば、無理を強いたり、言わなくてもすむようになります。

 

ですが、出来なら社会貢献やボランティアはやったほうがいいでしょう。できるならそうすることがお勧めです。やはり社会や人様に対して、何らかの支援や施しを行うことは、お釈迦さまも推奨されていました。

 

直接的な支援もさることながら、金銭的援助、あるいは良い考え方は判断方法を教えてあげるとか、こういったことも広く含めて、「施行(せぎょう)」として推奨されていました。

 

ただし、悪い心でやったなら、それはあまり効果が無いといいますか、意味を成さなくなるということです。そうして、実際に、悪心を起こしながら、行っている方もいますので、せっかくの善行を台無しにしているようでもったいないですね。

 

また「自分はこれだけ人助けをしているから」と驕り高ぶってしまうケースもあります。横柄でぞんざいな態度を取り、人を上から見下ろすようなことが多くなったりします。これでは何のためにボランティアをやっているのか、分からなくなります。

 

こういう現実がありますので、悪行為に陥らないためにも、また普段の生活の中で善いことが行えることを知っていただくために、あえてコントラストを強くして書いたところがあります。

 

理想的には、善い心で社会貢献やボランティア、募金活動といったことをすることになると思います。ですが、量の多さ、活動の広さとかではなく、自分ができる範囲で取り組んでいくことということになると思います。

 

積極的にされるのは大いに結構ですので、気持ちのある方は遠慮したり控え目になりすぎないで、積極的にされるのがいいと思います。積極性は大切です。挑戦する気持ちも大切です。志を持って取り組むことは大切です。

 

心を抑圧するのではなく、また興奮したり感情を激しくかき立てるのではなく、リラックスした中庸のある感じで取り組むのが良いようです。

 

この辺りの感性といいますか、状態は人それぞれでしょう。あと相性とかもあり、他の要因もあります。ですが、ポイントは心の状態ということですね。

 

そうしてお釈迦さまは、在家に対しては「生天の教え」として、

 

戒(かい)・・・心をきよらかにしましょう
施(せ)・・・他人や社会に何らかの貢献・施しをしましょう

 

を説いておられます。
車の両輪の如く、どちらも大切であるということですね。
現代はともすると、戒をおろそかにしがちです。
両方を備えることが大切ということですね。

 

そうして「心を浄める」ということがより重要になってきて、仏教の目指すところにもなってくるということです。

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2012/05/26