サンガへの入門~きめ細やかな配慮

お釈迦さま在世の当時、サンガへ入門した際、師匠と相性が合わない場合もあったようです。こういうときは、ほかの師匠の元で修行することが許されていました。
仏教では相性をとても大切にされていたようです。

このくだりを知って、原始仏教の深淵さ配慮の細かさに圧倒された思い出があります。

人間関係が悪化したり、つまづく原因の一つに「相性の合う合わない」がありますね。「相性なんてないよ」という方もいるかもしれませんが、人間だけでなく物事には「合う合わない」はあります。

職場でも学校でもサークルでも、どこでもどうしても合わない人・仕事というのはあります。ですが相性自体、良いとか悪いとかはなく、文字通り、単に相性の問題です。

相性は少々悪くても、慣れるに従って気にならなくなることも多いものです。ですが、著しく相性が悪い場合、これを無視した対処や行動をしていますと、問題に発展していきます。

合わないのを続けていくと、次第に嫌悪感が出てきたり、疲れたり、あるいは成長が望めなかったりと、マイナスの現象が出てきます。実はこれが問題です。

元々、相性ですので、これ自体に善悪としての良い悪いはないのですが、あまりにも相性の悪い方や物と一緒になっていると、次第に嫌悪感や疲労感に発展するのが問題なのですね。

相性が合わない場合、「寛容性を高める」のが理想ではあります。しかし現実はそこまで望めないケースも多いものです。心を成長させることができて、初めて相性の壁を乗り越えられることができます。こういう修行なり訓練をしなければ、多くの場合、単なる無理強いとなってしまいます。

ですから相性が問題に発展しないためには、克服できそうもなければ、距離を置くとか、相手を変えるとかの対処が現実的になります。仏教ですら、そのように対処しています。無理に寛容することは心に歪みを起こすこともありますので必ずしも良いとは限らないような印象です。

原始仏教は、心を扱い、しかも大変デリケートな対処をしていきますので、師匠との相性が合いそうもなければ、変えてしまうというのは、実に相性の妙味が充分に分かっているからだと思います。一生共にしますので、相性を配慮するのは大変合理的だと思います。

原始仏教では、修行の方法でも相性を尊重します。不浄観という瞑想があり、これは死体が腐っていく様を見て、欲を無くし無常を悟っていく伝統的な方法です。しかしお釈迦さま在世の当時、この不浄観が苦手なお弟子さんがいたようです。

そのお弟子さんの前世を見ると、多くの生涯で綺麗な物、金細工を加工するなどの仕事に携わり、美しい物を扱う業が多いことが分かったそうです。

そこで十遍処という瞑想の一つの赤遍処という方法で、美しい赤を見続ける瞑想をしたところ、すぐにサマーディを得たといいます。

このように原始仏教では、相性や適性を尊重しながら進めていった形跡が見られます。

しかし理屈だけで考え出すと、相性や適性を「わがまま」「甘い」と判断するようになります。これは理屈だけで考える典型的なパターンです。

もっとも、成長という軸が無ければ、確かに単なる「わがまま」や「甘え」に陥るでしょう。ですので、軸として「人間の成長」ということが前提になってきます。

しかし教育や倫理では「嫌なもので我慢してやりなさい」「寛容な心を発揮しないさい」といった無理を強いるやり方も少なくありません。

といいますか、この方法が簡単ですので、わりと多く行われています。嫌なことを我慢したり、無理に受け入れることが正しいとし、心の成長にもつながるという理屈も付けます。

ですが現実は、むしろ逆です。こういった我慢のし過ぎや無理による心身の歪みの問題はたくさん起きています。日本人の場合、特にこういうバイアスがかかりやすくなっていますので、ほどほどにしたほうが良いと思います。

決してわがままを助長させるということではなく、心を成長させる下地や軸があれば、相性を配慮した措置は、むしろ、人間は成長し豊かになっていきます。

実際、気の合う友人や仲間を大切にし、その中において心を成長させる関係になると、愛ややさしさが自然と育まれてもきます。

これは子供の情操教育でも役立ちます。いえ大人でも役立ちます。心が成長しやすい環境は大切ですね。その環境の要因の一つに「相性」があると思います。

原始仏教では抑圧させることは原則的にやっていおらない様子です。心を知り尽くした原始仏教ならではの素晴らしい配慮と、優れた指導方法であると思います。現代社会においても示唆に富む指導であると思います。

仏教が素晴らしいと思う理由は、こういった現実的で合理性があり、なおかつきめ細やかな配慮をしている点にもあります。

また原始仏教では入門者の性格や気質を6種類に分けて、その方に合った修行方法を採用していました。本人の適性や資質を踏まえた上で、緻密な指導をしていたようなんですね。

ですが反面、修行をなまけていると大変厳しく、あまりにも厳しい指導のために自殺したり還俗した弟子もいたくらいです。

仏教の瞑想法には何種類かあります。

ですが現代では、伝統的な瞑想法を在家に直接教えているケースはほとんど無く、在家向けにアレンジした形が多くなっている様子です。手動瞑想もその一つになります。

ですが、これには理由があり、指導者の側で修行を進めないと厄介なことを乗り越えられないことが起きてくるためのようです。

例えば瞑想法によっては、視覚や聴覚、身体などに異常が出てくることがあって、指導者の元にいないと恐怖に陥ってしまい、ここを上手く乗り越えられないことが起きるからのようです。

指導もデリケートに配慮されていますが、瞑想の進み方も実は非常にデリケートなところがあるようです。ですが、在家向けに行われている瞑想のほとんどは安全ですので、大丈夫です。