仏教

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梵天勧請

「梵天勧請(ぼんてん-かんじょう)」という言葉があります。

 

これは文字通り、「梵天から勧め請われた」ということです。
何を勧め、請われたのかといえば、お釈迦さまに対して、「悟りに至るための方法を説いてください」と梵天が勧めたことになります。

 

梵天が勧めたエピソードにちなんで「梵天勧請」といった言葉が作られました。
実は、「梵天がお願いした」ということは、破格のすごいことになるのですね。

 

ところで「梵天」。
梵天とは何でしょうか?

 

まあ、一言でいえば、非常〜にエライ神さまをいいます。

 

わかりやすく言いますと「創造主」や「父」のことです。

 

仏教では、普通の神さまの住む世界を「六欲界(ろくよくかい)」といっています。大黒天とか毘沙門天といった神さまから、地の神など、神さまが住む世界を六欲界といいます。守護霊とか、そういう高級な存在も六欲界に属するでしょう。

 

けれども梵天になりますと、普通の神さまの世界を超越します。
仏教では「色界(しきかい)」といって区別します。
六欲界の神さまとは次元を異にして、ずーっと瞑想した状態に入っています。分かりやすくいいますと、スピ系で「ワンネス」といっていますが、ワンネスの状態が永続している存在、それが「梵天」です。

 

この梵天こそ、創造主や父であって、世界の中心的存在とも言われています。

 

こういう創造主的な存在の「梵天」から、「どうか、その悟った内容を説いてください」と、お釈迦さまは「何度も」説得されたということです。

 

ここのエピソードは大変、有名なのですが、私などは映画の圧倒的なワンシーンを想像してしまいます。通常は、偉大なる創造主が、人間に命したり、アドバイスしますが、梵天勧請でのお釈迦さまの場合は、正反対です。

 

創造主が、お釈迦さまに「お願い」しているのですね。しかも「何度」も。

 

これはすごいことだと思います。腰を抜かすばかりの出来事だと思います。

 

こういうこともあって、お釈迦さまは偉大であると思ったりもします。
梵天が、仏教の教法を訪ねるシーンは、梵天勧請だけでなく、仏典にはいくつか記録に残っています。実は、仏教と梵天とは深い関係もあります。仏教を実践する者の心は「梵天の如くあれ」という教えも残っているほどです。

 

梵天という偉大な神さまと、仏教との関係は、また追々、書いていこうかと思います。スピリチュアルに興味のある方も、おそらく大変驚くエピソードもあろうかと思います。

 

このようなお釈迦さまですが、しかしお釈迦さまは大変物静かで謙虚な方でもあったようでして、集団の中にいると、誰がお釈迦さまなのかが分からないほど目立たない方だったようです。

 

本当に崇高な性格で、すごいですね。
仏典を深く読んでいきますと、お釈迦さまの人間性に深く感動させられます。

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2012/05/06


最初の説法の失敗と成功〜ウパカとコンダンニャ

このように、梵天という創造主的な神の要請を受けて、お釈迦さまは、ご自分が悟ったことを「言葉」で伝える活動を始めることになりました。

 

お釈迦さまが一番最初に説法した人間がいます。
ウパカという修行者です。
しかしなんとこともあろうに、お釈迦さまは最初の説法に失敗しています。

 

ウパカは、お釈迦さまが立派な方に思われたので、「あなたの師はどなたですか」と訪ねます。そうしたところ、お釈迦さま悟っていますので、「私には師匠はいません。私よりもすぐれた者はおりません(私は仏陀です)」と言われました。ウパカは、「そうかもしれませんね」と頭を振って去っていったとあります。

 

ちょっとこのシーンは意外に思いますよね。
梵天に請われて仏法を説くと決心されたお釈迦さまの最初の説法は、いきなり失敗だったということです。

 

お釈迦さまといえば、スーパーマンで超人のようなイメージを持つ方もいらっしゃると思いますが、原始仏典で描かれるお釈迦さまの姿は人間的です。頭痛持ちで、背中や腰がよく痛いと言われていたといいます。実在のお釈迦さまは、圧倒的でバーンとした方ではなく、いつも微笑んでいて物静かな方だったといいます。

 

ですが、神通力(超能力)はすごい力を持っていたようです。旧約聖書に出てくる「モーゼの海割り」と似たようなことをしていたことが仏典に記録が残っています。

 

お釈迦さまが人間に説法して一番最初に成功した方は、コンダンニャという方であったことが仏伝には記録が残っています。

 

コンダンニャは、お釈迦さまの指導を受けて、悟りを得ることに成功します。
このとき、お釈迦さまは、「アンニャー・コンダンニャ」と感嘆の言葉をあげたといいます。

 

「アンニャー・コンダンニャ」とは「コンダンニャは悟った!」という意味のようです。
奇しくも、このとき「アンニャー・コンダンニャ(コンダンニャは悟った!)」という言葉が、そのまま後のコンダンニャの通称になります。「アンニャー・コンダンニャ」と呼ばれるようになります。

 

お釈迦さまは、初めて自分以外の人間が悟りに至ったことから、大変うれしかったようです。ですので、一番最初に自分以外の人間で悟りを得て、「コンダンニャは悟った!」と言われた言葉がそのまま、コンダンニャの通称になったのでしょう。

 

もしもウパカが一番最初に・・・となりますと、「アンニャー・ウパカ」という言葉が残ったかもしれません。

 

しかし、ウパカはその後、お釈迦さまのお弟子になります。
ウパカはお釈迦さまと道ばたで出会った後に、還俗(一般社会人)し、結婚します。しかしなんと、その奥さんが出家してお釈迦さまの弟子になってしまいます。この間、夫婦の間で今も変わらないやりとりがあったことが残っています。
そうして残された夫のウパカは、妻の後を追うように出家していきます。

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2012/05/09


仏教の基本

仏教の歴史についてかなり力が入ってしまい、初めての方は、途中でわけがわからなくなったかもしれません。

 

ですが要するに、お釈迦さまが亡くなった後、100〜200年の間に少しずつ変化していき(部派仏教)、500年くらい経ってから大乗仏教が出てきたということです。

 

部派仏教は、多数派の上座部と、少数派の大衆部に二分していたということです。傾向としては、上座部は伝統的な修行法に加えて、森羅万象の存在原理や時間と空間との関係などを、瞑想によって深く掘りさげて、この世の仕組みまでを解明しようとしました。

 

一方の大衆部は、それは推測ですが、地球以外の銀河にも多くの仏陀がいることを瞑想によって知り、その探求を始めたのではないかということです。

 

この二つの路線となっていったのですが、どちらも「偏り」が出てきたということです。偏りがありながら、正論を言われても、そりゃ聞く耳を持たなくなるのも当然といえば当然かもしれません。

 

歴史的資料が乏しいですので仏教の変遷の理由を解明するのは難しく、推測が多くなりますが、私としては、瞑想修行による超越的な能力が関与していた可能性が高いとみています。

 

しかしお釈迦さまがいらっしゃった当時、必ずしも神通力のような超人的な能力は必須ではなかったようです。悟りに至った方々にも、そういう特殊な能力も備わらず、ふつーな感じの方々も多かったようです。そういったことが書かれたお経もあります。

 

元々、仏教は、心を清めることで、究極的には悟りに至れるとした実践行になります。
スーパーマンのような能力を求めたり、運命を転換するといったことが目的なのではないのですね。あるいは部派仏教のように、森羅万象の存在原理の解明を試みたり、宇宙の仕組みを解明しようとするものでもありません。
仏教とは、一言でいってしまいますと「心を浄める教え」になります。

 

「七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)」という、有名なフレーズが残っています。おそらく誰でも一回は耳にしたことのある言葉だと思います。七仏通誡偈(しちぶつ つうかいげ)とは、

 

諸悪莫作(しょあくまくさ) ⇒ 悪いことをしなさんな
衆善奉行(しゅうぜんぶぎょう)  ⇒ 良いことをしましょう
自浄其意(じじょうごい)  ⇒ 自分の心を浄めましょう
是諸仏教(ぜしょぶつきょう)  ⇒ これがもろもろの仏陀が特教えです

 

というものです。この通りです。これを詳し〜く説明しているのが、仏教の教法になってくるわけです。大前提といいますか、一番の命題は

 

心を浄める

 

これに尽きます。
心を浄めるとは、別の言い方をすれば「煩悩を無くす」ということになります。

 

この命題を元にスタートしているのが仏教です。

 

そして、「心を浄めるためにはどうすればいいのでしょうか?」となりますと、

 

三学(さんがく)を実践しましょう

 

ということです。三学とは、

 

戒・定・慧(かい-じょう-え)

 

のことです。そして、戒・定・慧を、別の言い方をしますと

 

八正道(はっしょうどう)

 

となります。
これが仏教の具体的な実践の根本です。

 

また教えとしては、

 

執着(しゅうちゃく)があるから苦悩を招き、執着が無ければ安心を得る
または
無明(むみょう)があるから苦悩を招き、無明が無ければ安心を得る

 

ということです。
この執着や無明こそ、心を浄める妨げになり、煩悩の本質になるわけです。
シンプルだと思いませんか?
実に明快です。

 

そして、心を浄めることと、八正道を、さらにセットでまとめたものが

 

四諦(したい)

 

です。
※ちなみに四諦を文字通りに「4つの諦め(あきらめ)」と理解してはなりません。「諦」は「真理」という意味です。「諦」は「明らかにする」という意味になります。ですので四諦は、「4つの真理」という意味です。

 

仏教は、

 

・心を浄める実践行
・四諦・八正道(三学)

 

ということを知っていれば、基本的に充分になります。これ以外は枝葉といいますか、より理解を深めるための道案内になります。

 

仏教の教法は言葉で数多く説かれていますが、まずガイドラインの幹をしっかりと把握することですね。ガイドラインが曖昧ですと、あらぬ方向へ行ってしまうことがあります。

 

自分の心の世界という大海原に向かっていくためには、全世界を見渡せる海図を持っていくことが肝心です。細々とした海の海図ではなく、まず全体を見渡すことのできる海図が必要です。

 

細々とした所には入っていったとしても、常に基本に立ち返って全体性を俯瞰するようにすれば、間違えることは無いと思われます。

 

その基本が、心を浄める、四諦・八正道(三学)になるわけです。

 

ということでして、仏教とは、そういうシンプルなものになります。

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2012/05/12


カーラーマ経(増支部・三集・大品5)

仏教の特徴の一つに、「自分が確かめられないことには、関わらない」というのがあります。
正確に言いますと、カーラーマ経(パーリ経典の増支部・三集・大品5に掲載)にあるお釈迦さまの言葉です。
カーラーマ経とは、こちらのサイトにある通りです。

 

「自分でよく確かめていくこと」の勧めですね。
想像や空想ではなく、きちんと自分で調べ確かめていくことの勧めです。
仏教では、きちんと自分で確かめられないことは棚上げにしたほうが良くなります。あるいは、関わらない、スルーするといった態度です。

 

このブログでも書いてきましたが、禅定力や、涅槃、悟り、天界、地獄とか、自分で確かめることのできない、いわば形而上の世界のようなことが、仏教には数多く出てきます。あるいは輪廻、生まれ変わりもそうです。

 

カーラーマ経で言うところは、「本当にあなたは、これらを確認したのですか?」といったいうことです。また確かめることができなければ、安易に信じてはなりませんよ、という姿勢のおすすめです。

 

もっとも自分で体験はできていなくても、証拠や事実を積み重ね、推理によって「それは本当の可能性がある」という結論に達することができる場合があります。涅槃にしても、輪廻、天界、地獄にしても、いくつかの証拠から認めることができます。ただし、この検証作業ではシャープな推理力や洞察の深さが必要になるでしょう。

 

物事を信じる・信じないは自由ですが、少なくとも原始仏教では「きちんと自分で確かめましょう」という姿勢が大切ということです。

 

「なんとく本当っぽい」ということから信じてしまうことも多いと思います。
まあ、この辺りは、自己責任ということで、それぞれの判断でもいいのかもしれません。興味や関心、好奇心もありますし。

 

ですが、仏教(原始仏教)のスタンスは、「自分で確かめる」スタンスということですね。

 

ところで仏教は悟りを得ることが目標の一つにもなっています。
しかし、悟りといったって、それがどういうものか分かりません。
わけのわからないものを目指すことになってしまいます。

 

仏教では、悟りとか、解脱とか、ある境地とか、そういうものを目指すことをしないで(とらわれないで)、「心を浄める」という現在形の実践になってくるのも、このことと関係があるのでしょう。

 

こういうことからも、実践仏教では「心を浄める」という一本になってくるのでしょう。

 

教理的、学問的には、「涅槃を得る」「悟りを得る」「解脱する」といった定義付けもできますが、実践的な仏教の立場からすれば、こういった目標をかかげないほうがよいようです。

 

「悟りを得る」「瞑想に上達する」とかになりますと、「欲」がムクムクと頭をもたげてくることも多いものです。こういった心に陥ると、前に進めなくもなるようです。

 

パラドックスですね。
注意したいものです。

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2012/05/31


経典学習の際の注意〜原始仏教原理主義になってはならない

仏教を学ぶためには「四部経典」を中心に勉強するのがセオリーです。四部経典とは長部経典、中部経典、相応部経典、増支部経典の4つをいいます。四部経典には、パーリ、漢訳の2種類ありますが、おすすめなのはやはりパーリでしょう。漢訳は、ごちゃ混ぜになっていて統一性がありません。しかも後の大乗仏典の初期のものも混入しています。

 

ですのでパーリの四部経典から勉強するのがセオリーになります。これに加えて論蔵などを勉強していきます。

 

しかし経典学習の際、気をつけなければならないこともあります。それは経典とは「文字化されたもの」ということです。文字化されたものですので、これを活かすためには実践上の工夫などが必要になります。

 

注意が必要なのは、経典に書いてある文言を絶対視してしまうことです。経典に書いてあることを正確に理解することは学習上、必要ではありますが、経典に書いてあることを絶対視過ぎると、これは誤りになります。

 

経典は仏陀亡き後100年経って編纂された

まず経典は、仏陀が亡くなった後100年くらい経ってから編纂されたものだからです。仏陀在世当時にお話しされたままではないものも多くあるでしょう。

 

経典とは、仏陀がお話しされたことを整とん整理して散文にしたものです。

 

もともと経典とは、最初は暗記しやすいようにガータ(詩)として唱えられていました。ガータの中にはパリッタと呼ばれるものもあったでしょう。

 

このガータ(詩)から短文化されて、そうして経典としての散文になったといわれています。

 

経典とはこのような歴史的変遷を遂げる中で完成されてきました。決した、お釈迦さまがお話しされた文言通りに記録されているわけではなさそうです。

 

もっとも「スッタニパータ」は、お釈迦さまがお話しになったことと近いものが「詩」の形で残っているといわれています。実のところスッタニパータは、経典を作る素材としての資料的価値もあったりします。

 

原始仏教原理主義になってはならない

こうした編纂を経て完成したのが経典です。ですので、経典を絶対視することは危険にもなります。また経典に書いていないことを「非仏教的」とするのもどうかと思います。

 

普通に「良い」と感じることは良いことです。人のために祈ったりすることは良いことです。善行は全て善いことです。

 

しかし経典に忠実になりすぎると、いわゆる「原理主義」となって排他性が出てきます。「そんなこと経典に書いていないじゃないか」とか、何事も経典を参照して正確性を求めます。これが原理主義です。

 

もちろん経典に忠実で、正確に理解して解釈する必要はあります。誤って解釈したり、アバウト過ぎて理解するのは困りものです。しっかりと確実に経典を学習して正確な知識を持つことは必要です。またそうするのがおすすめです。

 

しかし悪心を持ちながらの原理主義はよくありません。ここでいう原理主義とは攻撃性や排他性を持ったマインドで関わる姿勢です。

 

こういう悪心の姿勢を持った原理主義になると、あらゆる宗教がそうですが、排他的になり攻撃的になります。つまり「カルト宗教」です。

 

あらゆるカルト宗教は、排他性と攻撃性を秘めています。三毒に犯されているのですね。三毒に犯されてながら、これに気づかず、「正しい宗教」といってこだわって信奉しているわけです。

 

こういった姿は滑稽です。しかし原始仏教といえども、カルト宗教化することもあり得ます。原理主義にしてもカルトにしても、要は「心の有様」です。

 

「正しい教えだから」といって、これにこだわりすぎて硬直性が出てくると、誤った姿勢での取り組みになります。実はここには大きな「落とし穴」があります。

 

正しい仏教を実践していながら、偏狭的で攻撃的な心の姿勢でいるなら、それは仏教的には誤りです。正しい教えを信奉していても誤りです。

 

仏教とは「心を良くする」実践宗教です。正しい仏教を信奉していて他宗をやたらと攻撃するようであるなら、それは仏教ではありません。見た目は仏教でも、中身は仏教ではないということです。単なるカルトです。原理主義です。

 

文字化された経典学習だけでは仏教は体得できない

そもそも経典とは文字化されたもので、その内容は、プラーナを踏まえて始めて理解できる部分もあります。何が正しく、何が誤っているかは、頭で理解するものではありません。もちろん理屈でも理解しますが、本質的なことはプラーナレベルの微細な感覚で本能的に理解していくものです。

 

仏教徒は、理屈や理論で学び実践するだけではありません。理屈や理論の向こうにあるものに基づいて実践していくものであると思っています。

 

頭でっかちで、理屈や理論に偏重し、知らぬ間に偏狭性な心になるような原理主義にはなってはならないでしょう。

 

文字化された経典だけをいくら学習しても仏教を体得したことにはなりません。知識や情報、論理性はもちろん重要です。しかしこれ以上に重要なのが知識や理論を超えたところに開かれてくる世界に基づく感覚です。

 

ここにおいてはじめて五戒が何故、必要なのかも分かってくるのではないかと思います。プラーナをマイルドにするためには五戒は欠かせないからだと理解しています。

 

仏教は、経典から学ぶことが多いものです。しかし決して原理主義にならないように注意する必要もあると思います。人間の心もまた無常ですので、自分自身がそうならないようにも気をつける必要もあります。

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2012/11/12