経典学習の際の注意~原始仏教原理主義になってはならない

経典学習の際の注意

仏教を学ぶためには「四部経典」を中心に勉強するのがセオリーです。四部経典とは長部経典、中部経典、相応部経典、増支部経典の4つをいいます。

四部経典には、パーリ、漢訳の2種類ありますが、おすすめなのはやはりパーリでしょう。漢訳は、ごちゃ混ぜになっていて統一性がありません。しかも後の大乗仏典の初期のものも混入しています。

ですのでパーリの四部経典から勉強するのがセオリーになります。これに加えて論蔵などを勉強していきます。

しかし経典学習の際、気をつけなければならないこともあります。それは経典とは「文字化されたもの」ということです。文字化されたものですので、これを活かすためには実践上の工夫などが必要になります。

注意が必要なのは、経典に書いてある文言を絶対視してしまうことです。経典に書いてあることを正確に理解することは学習上、必要ではありますが、経典に書いてあることを絶対視過ぎると、これは誤りになります。

経典は仏陀亡き後100年経って編纂された

まず経典は、仏陀が亡くなった後100年くらい経ってから編纂されたものだからです。仏陀在世当時にお話しされたままではないものも多くあるでしょう。

経典とは、仏陀がお話しされたことを整とん整理して散文にしたものです。

もともと経典とは、最初は暗記しやすいようにガータ(詩)として唱えられていました。ガータの中にはパリッタと呼ばれるものもあったでしょう。

このガータ(詩)から短文化されて、そうして経典としての散文になったといわれています。

経典とはこのような歴史的変遷を遂げる中で完成されてきました。決した、お釈迦さまがお話しされた文言通りに記録されているわけではなさそうです。

もっとも「スッタニパータ」は、お釈迦さまがお話しになったことと近いものが「詩」の形で残っているといわれています。

実のところスッタニパータは、経典を作る素材としての資料的価値もあったりします。

原始仏教原理主義になってはならない

こうした編纂を経て完成したのが経典です。ですので、経典を絶対視することは危険にもなります。また経典に書いていないことを「非仏教的」とするのもどうかと思います。

普通に「良い」と感じることは良いことです。人のために祈ったりすることは良いことです。善行は全て善いことです。

しかし経典に忠実になりすぎると、いわゆる「原理主義」となって排他性が出てきます。「そんなこと経典に書いていないじゃないか」とか、何事も経典を参照して正確性を求めます。これが原理主義です。

もちろん経典に忠実で、正確に理解して解釈する必要はあります。誤って解釈したり、アバウト過ぎて理解するのは困りものです。

しっかりと確実に経典を学習して正確な知識を持つことは必要です。またそうするのがおすすめです。

しかし悪心を持ちながらの原理主義はよくありません。ここでいう原理主義とは攻撃性や排他性を持ったマインドで関わる姿勢です。

こういう悪心の姿勢を持った原理主義になると、あらゆる宗教がそうですが、排他的になり攻撃的になります。つまり「カルト宗教」です。

あらゆるカルト宗教は、排他性と攻撃性を秘めています。三毒に犯されているのですね。三毒に犯されてながら、これに気づかず、「正しい宗教」といってこだわって信奉しているわけです。

こういった姿は滑稽です。しかし原始仏教といえども、カルト宗教化することもあり得ます。原理主義にしてもカルトにしても、要は「心の有様」です。

「正しい教えだから」といって、これにこだわりすぎて硬直性が出てくると、誤った姿勢での取り組みになります。実はここには大きな「落とし穴」があります。

正しい仏教を実践していながら、偏狭的で攻撃的な心の姿勢でいるなら、それは仏教的には誤りです。正しい教えを信奉していても誤りです。

仏教とは「心を良くする」実践宗教です。正しい仏教を信奉していて他宗をやたらと攻撃するようであるなら、それは仏教ではありません。見た目は仏教でも、中身は仏教ではないということです。単なるカルトです。原理主義です。

文字化された経典学習だけでは仏教は体得できない

そもそも経典とは文字化されたもので、その内容は、プラーナを踏まえて始めて理解できる部分もあります。何が正しく、何が誤っているかは、頭で理解するものではありません。

もちろん理屈でも理解しますが、本質的なことはプラーナレベルの微細な感覚で本能的に理解していくものです。

仏教徒は、理屈や理論で学び実践するだけではありません。理屈や理論の向こうにあるものに基づいて実践していくものであると思っています。

頭でっかちで、理屈や理論に偏重し、知らぬ間に偏狭性な心になるような原理主義にはなってはならないでしょう。

文字化された経典だけをいくら学習しても仏教を体得したことにはなりません。知識や情報、論理性はもちろん重要です。

しかしこれ以上に重要なのが知識や理論を超えたところに開かれてくる世界に基づく感覚です。

ここにおいてはじめて五戒が何故、必要なのかも分かってくるのではないかと思います。プラーナをマイルドにするためには五戒は欠かせないからだと理解しています。

仏教は、経典から学ぶことが多いものです。しかし決して原理主義にならないように注意する必要もあると思います。人間の心もまた無常ですので、自分自身がそうならないようにも気をつける必要もあります。