梵天勧請~パーリ仏典・中部経典26経「聖求経」

梵天勧請とは?

「梵天勧請(ぼんてん-かんじょう)」という言葉があります。

梵天勧請とは文字通りで「梵天から勧め請われた」ということです。

梵天が何を勧め、請われたのかといえば、お釈迦さまに対して「悟りに至るための方法を説いてください」と梵天が勧めたことになります。

梵天が勧めたエピソードにちなんで「梵天勧請」といった言葉が作られました。実は「梵天がお願いした」ということは、破格のすごいことになるのですね。

梵天勧請の話しは、パーリ仏典・中部経典26経「聖求経(しょうぐきょう」にあります。Ariyapariyesana Sutta。

また漢訳の阿含経・中阿含経(大正蔵26)204経「羅摩経」にあります。パーリ仏典のほうが読みやすいですね。

パーリ仏典・中部経典26経「聖求経」

梵天勧請のエピソードが伝承されているのがパーリ仏典・中部経典26経「聖求経」です。

では、このお経にはどういうことが伝承されているのでしょうか。翻訳文には意味が通じにくいところがありますので、意訳を交えながら原文からおおよそ引用してみます。

——————–
わたくし(お釈迦さま)は、生命には生れ・老い・病・死・憂う・汚れる患いがあることを知り、生れ・老い・病・死・憂う・汚れのない無上の安らぎである涅槃を求め、ついにわたくしは涅槃を得た。

涅槃を得たわたくしには、知見が生じた。わたくしの解脱は不動である。これが最後の生まれである。もはや再生することはない(二度と生まれることはない)。

わたくしが感得した真理は深遠で、見がたく、理解し難く、静寂で、すぐれていて、思慮の領域でなく、微妙で、賢者によってのみ知られる性質である。

しかし人々は、執着を好み、執着を楽しみ、執着を喜んでいる。

こうした人々には縁起、心が静まること、執着を手放すこと、心の汚れが薄くなること、涅槃という道理を見ることは難しい。

もしわたくしが、人々に解脱の教えを説いたとしても、よく理解しなければ、わたくしは疲れるだけだ。がっかりもするであろう。

だから、わたくしが苦労して得たものを、いまは説く必要はない。貪りや怒りに負かされている人々には、そもそもこの真理は理解しがたい。

世の中の流れに逆らい、微妙で、深遠で、見がたく、微細である真理を、貪欲に染まり、暗黒に覆われた人々は、決して見ない(関心を向けないし、理解できない)。

わたくしは、このように省察し、教えを説く意欲を失い、教えを説こうと思わなくなった。

そのとき世界の主である梵天(ブラフーマ神。創造主?)は、「ああ、君よ、それでは世界は滅びてしまう。消滅してしまう。」と思った。

そこで梵天は、「世尊よ、どうか教えを説いてください。生まれつき汚れの少ない人はいます。彼らは、解脱の教えを聞かなければ衰退してしまいます。汚れの少ない人は教えを理解できるようになるでしょう。」と請い願った。

わたくしはブラフマー神の要請を受けて、世間を超人的な眼(天眼通)で見渡した。すると世間には、

汚れの少ない者たち
感官の鋭い(鋭敏な)者たち
善い者(善人)たち
素直で教えやすい者たち
がいることを見た。

そこでわたくしはブラフマー神に詩句で堪えた。

耳ある者たちに不死の門は開かれた。

信頼を寄せなさい。ブラフマー神よ、わたくしは失望していたため、洗練されたすぐれた真理を人々に説かなかったのである。
——————–
以上が、パーリ仏典・中部経典26経「聖求経(しょうぐきょう」における梵天勧請のエッセンスになります。

関連ページ
耳ある者どもに不死の門は開かれた

仏法・ダンマは理解しがたい

このようにお釈迦さまは、成道した直後は、その悟り・涅槃への道を説こうとしなかったんですね。なぜ説こうとしなかったのは、このお経にある通りです。

人々が理解するのは困難だからです。お経にありますね、

お釈迦さまが感得した真理は

・深遠
・見がたい
・理解し難い
・静寂
・すぐれている
・思慮の領域でない
・微妙
・賢者によってのみ知られる性質

であるからです。

しかも人々は

・執着を好む
・執着を楽しむ
・執着することを喜んでいる

であると。

で、こうした人々には

・縁起の理
・心が静まること
・執着を手放すこと
・心の汚れが薄くなること
・涅槃という道理

を見ることはできないと言われています。

なのでダンマを説くのは諦め、説かないでいようとしていたわけですね。ところが、お釈迦さまの天眼通を世の中を見渡すと、数少ないものの、

・汚れの少ない人がいる
・感官の鋭い(鋭敏な)人がいる
・善い者(善人)がいる
・素直で教えやすい人がいる

ことを見いだします。それでお釈迦さまは、ダンマを説くことを決意されるわけですね。

これが「耳ある者どもに不死の門は開かれた」の名言が残された梵天勧請ですね。

梵天とは?

ところで「梵天(ぼんてん)」。梵天とは何でしょうか?

梵天とは、ブラフマー神(Brahmā)をいいます。インドでは

  • 宇宙創造神(創造主)・・・バラモン教(ウパニシャッド)
  • 無色界・色界における梵天・・・原始仏教
  • 宇宙の真理・ダルマを象徴した神・・・密教、ヒンドゥ教
という3つの意味合いがあります。同じ「梵天(Brahmā)」でも、使われている文脈によって意味が異なります。

「梵天勧請」における梵天は「世界の主」とありますので、「宇宙創造神・創造主」としての梵天(ブラフマー神)になると思います。

つまり、このお経の文脈では、バラモン教で理解されている宇宙創造神・最高神としてのブラフマン(梵天)になると思います。

関連ページ
梵天という神さま

仏教における梵天の意味

ちなみに原始仏教においては、無色界・色界における神を「梵天」といっています。この梵天の世界は、無色界禅定、色界禅定を達した者が行ける特別な天界です。また不還果となった者だけが行くことのできる浄居天も梵天にあります。

原始仏教における梵天は、一つの生命体であり、輪廻転生する形態を言っています。原始仏教における梵天は、天界における無色界と色界にいらっしゃる最高神です。わかりやすく言いますと、神さまの中でも最高位となる神さまです。

禅定という一体感(ワンネス)状態にあります。寿命も21億年以上という大変長く、しかも身体も6㎞から火星や木星くらいの巨大な大きさの神さまです。

色界梵天の身体は「星の大きさ」

ちなみに密教の時代になる、梵天は「宇宙の真理・ダルマを象徴した存在」として使われます。「大日如来」がそうです。実在するかどうかわからず、象徴としての存在ですね。

原始仏教に登場する梵天は色界に住む神さま

仏教では、普通の神さまの住む世界を「六欲界(ろくよくかい)」といっています。大黒天とか毘沙門天といった神さまから、地の神など、神さまが住む世界を六欲界といいます。守護霊とか、そういう高級な存在も六欲界に属するでしょう。

けれども梵天になりますと、普通の神さまの世界を超越します。色界(しきかい)という特別な世界に梵天はいらっしゃいます。「色界(しきかい)」は仏教で言われている神さまの世界です。

色界

六欲界の神さまとは次元を異にして、ずーっと瞑想した状態に入っています。スピ系で「ワンネス」といっていますが、ワンネスの状態が永続している存在、それが「梵天」なんですね。

この梵天こそ、神さまの中でも最高位でいらっしゃいます。人間が、梵天に会うことはまずありません。アクセスすることは困難です。唯一、禅定に入れる人だけが梵天と見える資格があります。

しかしこのお経の「梵天勧請」の梵天は、原始仏教で登場する「無色界・色界における神」ではなく、世界の創造主・宇宙創造神としての梵天のような印象です。

お釈迦さまは創造主の梵天から頼まれた

このように世界最高位の偉大な創造主としての「梵天」から、「どうか、その悟った内容を説いてください」と、お釈迦さまは要請を受けたということなんですね。すごいですよね。

梵天勧請のエピソードは仏教では大変、有名なんです。私などは映画の圧倒的なワンシーンを想像してしまいます。

キリスト教では創造主が人間に命したりアドバイスしますが、お釈迦さまの場合は正反対です。創造主が、お釈迦さまに「お願い」しているのですね。

これはすごいことだと思います。腰を抜かすばかりの出来事だと思います。

バラモン教・ウパニシャッドに対抗するための梵天勧請

もっともバラモン教・ウパニシャッドで使われているのブラフマン(梵天)を、擬人的に登場させた可能性もあります。

というのも、バラモン教・ウパニシャッドのブラフマンが、ブッダに「ダンマを説くように」と懇願する描写をすることで、仏教がバラモン教・ウパニシャッドよりも優れていること誇示することができるからです。

この理由で、梵天勧請のスタイルを取った(創作した)可能性も考えられます。

梵天勧請は、創作の可能性が高いと思います。そもそも宇宙最高神としての梵天が、話しかけるということ自体が、ちょっと考えにくいからですね。

無色界・色界にいらっしゃる神としての(生命としての)梵天が、ブッダに話しかけるなら、まだわかります。

宇宙創造神のブラフマンが、ブッダに懇願するのは、ちょっと出来過ぎた話しにも思えましょうか。

3つの意味の「梵天」を理解する

そういうのもありますが、いずれにしろ、お釈迦さまは偉大な方ですね。

なお原始仏典では、同じ「梵天」という言葉が出てきても、梵天勧請のように「宇宙創造神」としての梵天と、無色界・色界における「神としての梵天」と、二つの意味が混在しています。

また後世の密教になりますと、仏法・ダンマの象徴としての梵天(大日如来)としての意味も出てきます。

文脈を踏まえて、どの梵天なのかを読み解く必要があります。

ちなみに無色界・色界における神である梵天が、仏教の教法を求めるシーンは、仏典にはいくつも記録に残っています。

仏教と梵天とは関係がある

実のところ仏教と神・生命としての梵天は深い関係があります。仏教を実践する者の心は「梵天の如くあれ」という教えも残っているほどです。

梵天という偉大な神さまと仏教との関係は、追々書いていこうかと思います。スピリチュアルに興味のある方も、おそらく驚くようなエピソードもあろうかと思います。

このようなお釈迦さまですが、しかしお釈迦さまは大変物静かで謙虚な方でもあったようです。集団の中にいると、誰がお釈迦さまなのかが分からないほど目立たない方だったようです。

本当に崇高な性格ですごいですね。仏典を深く読んでいきますと、お釈迦さまの人間性に深く感動させられます。