無明(アヴィッジャー)と受(ヴェーダナー)の瞑想

仏陀の修行は大別するなら、

・無明(アヴィッジャー)系
・受(ヴェーダナー)系

の2つになるでしょう。

無明(アヴィッジャー)系とは、文字通り、無明を滅するアプローチを取る方法です。
代表的なのが、このブログでも紹介しているパオ瞑想でしょう。

一方、受(ヴェーダナー)系は、十二因縁でも馴染みのある受(ヴェーダナー)から生じる煩悩を拡大させないアプローチです。代表的なのが四念処のように四六時中、自己観察をする方法です。

しかし四念処が受(ヴェーダナー)系の瞑想としたら、それは少々違うでしょう。
パオの瞑想にも四念処があります。
ヴィパッサナの課程に入ると、四六時中、無常・苦・無我を観察する修行が入ってきます。

ですので、無明(アヴィッジャー)と受(ヴェーダナー)の違いは、瞑想と観察の深さにおいて違いがあるということになります。

しかし無明(アヴィッジャー)と受(ヴェーダナー)もどちらのアプローチでも悟りに至ることができるということですね。

要するに「煩悩を生じない」ということが達成できれば良いわけです。

煩悩そのものを断滅する無明(アヴィッジャー)系でも良いですし、
煩悩を拡大させない受(ヴェーダナー)系のどちらでも良いということになります。

どちらの方法が優れているというのはナンセンスになるでしょう。
どちらも仏陀の瞑想法であり修行法です。

パオの瞑想では、最初に戒律をしっかりと行い、そうしてサマーディを深め、物質をカラーパレベルで観察をし、そうして精緻なその世界でヴィパッサナを行い無明を滅ぼします。

ダンマパダ(第十一章老いること・154)にある通り、

家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を造ることはないであろう。汝の梁(煩悩)はすべて折れ、家の屋根(無明)は壊れてしまった。こころは形成作用(行)を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。

まさにこの境地を目指すものでしょう。