ミッチャーサマタ(邪定)
テーラワーダ仏教では、推奨しない瞑想の仕方があります。サマタ瞑想とヴィパッサナ瞑想ともに、やってはならないとされている瞑想の仕方があります。
今回は、テーラワーダ仏教で「やってはならない」とされているサマタ瞑想についてご紹介します。
そもそもサマタ瞑想とは、一点に集中する瞑想の仕方になります。一点に集中するといっても、心を力強く集中することはしません。
といいますか、こういう瞑想の仕方が「やってはならない瞑想の仕方」の一つになります。
仏教の瞑想の仕方はソフトです。また仏教で推奨するサマタ瞑想は40種類に分類されます。
テーラワーダ仏教圏で禁じているサマタ瞑想を「ミッチャー・サマタ」といいます。ミッチャー・サマタとは直訳すると「邪定」といいます。
ミッチャーサマタとは、文字通り、邪な定(サマーディ)です。では、ミッチャー・サマタ(邪定)とは一体、どういう瞑想なのでしょうか。
簡単に言ってしまえば煩悩に根ざしたサマタ瞑想です。「煩悩に根ざした瞑想なんてあるんですか?」と聞かれそうですが、あります。
世の中には、見た目に同じ瞑想に見えても中身は別の瞑想があります。仏教では、煩悩から離れる瞑想の仕方をしていきます。
禅宗の只管打坐でもそうですね。心をカラッポにして瞑想していきます。
テーラワーダでも瞑想の基本は「気付き」「今ここに」「マインドフルネス」です。これは煩悩から乖離するメンタリティになります。このアプローチで得られる瞑想状態が、五禅支から始まる禅定(ジャーナ)です。
しかしミッチャー・サマタ(邪定)は、仏教で言うところの禅定にはなりません。統一感をともなった変性意識にはなりますが、心の清まった状態ではありません。
ミッチャー・サマタの具体例
ミッチャー・サマタ(邪定)とは、外部の力を利用して、誘導して恍惚感に浸る方法です。また煩悩を強める方法です。
一番わかりやすい具体例は「薬物」を使った瞑想です。ドラッグを使った瞑想ですね。
麻薬、大麻、覚醒剤、LSDというのは、最も簡単にトランス状態になりやすいかもしれません。しかしご存じの通り、心身に深刻なダメージを与えます。
薬物のほかに、ダンスや音楽を使った方法もあります。ダンスで有名なのは、ケチャでしょう。ひたすら踊りながら恍惚意識となってトランスしていきます。
また音楽でもあります。音楽で誘導されて変性意識になる方法もあります。ダンスや音楽は、薬物ほど重篤な疾患は引き起こしませんが、心は汚れています。
また、煩悩を強める方法としては、低俗な目標やイメージを使った方法があります。これもミッチャーサマタに入ります。好きなアイドルとか、欲しい物を対象とした瞑想は邪定になります。
成功哲学や成功法則も熱心に行えば、一種のトランス状態になりますので、ミッチャー・サマタと言っていいでしょう。この手の方法は、性欲や物欲を助長します。
ミッチャー・サマタは心を汚す
ミッチャー・サマタは、欲望を助長するだけでなく、欲望を残したまま、つまり心が浄まらないままトランス状態に入ります。つまり、煩悩が強化されて変性意識になるわけけです。
煩悩があるとは、心が汚れている状態です。ですので、仏教ではこの手の瞑想を禁じるのでしょう。
仏教は、どこまでも煩悩を無くす方向に進みます。心を浄めるのが仏教です。
ですので、薬物は問題外ですが、ダンスや音楽、低俗なビジョンといった方法で瞑想状態に入るを禁止するわけです。
ダンスや音楽が何故悪いかといえば、心が充分に清まらずに誘導されていくからです。一種の誘導催眠です。瞑想は、自力で心を浄化させながら深めていきます。
といいますが、五蓋という煩悩が弱くならないと瞑想は深まりません。瞑想では、心を浄めることを、自力で行います。
しかしダンスや音楽は、自力で心を浄めることが疎かになりがちです。まず五蓋(ごがい)という煩悩を鎮めることはできません。
しかしこの手の方法は、五蓋を残したまま、比較的簡単にトランス状態に入ります。手軽にトランス体験できるのですが、欲望や煩悩を残したままの不浄な状態です。
ですのでこの手のミッチャー・サマタを行うと、幻視や幻覚を見るようになります。
たとえば、あの世とか異世界を見ます。薬物を使った場合は、煩悩が強烈ですので、サイケデリックな幻視や幻覚も見ます。
変性意識状態ですので、見る物・聞く物は全てリアルです。
あたかも実在する世界のようです。幻視・幻覚であっても、リアルであるため、実在する世界と勘違いします。
また統一感もあるため、一種の力を発揮することがあります。透視、ヒーリングといった超能力らしい力を出すこともあります。
しかしこれらは坐禅の世界もいわれている「魔境」に他なりません。瞑想でも、欲を持ったまま統一状態に近くなると、リアルな映像を見ます。
ミッチャーサマタ(邪定)では、こういったビジョン(幻視)を頻繁に見るようになります。
日本でも昔、滝に打たれて通力を獲得しようとした行者もいましたが、これも同じです。欲望を根底に秘めて変性意識へ移行すれば、不可思議な光景を見たりします。
しかも禅定に近い状態にもなるため、奇瑞を起こすときもあります。欲望や夢、そういったものをまとっているものはミッチャー・サマタであることが多いかもしれません。
サマタ状態になると奇瑞を起こすことがある
正しいサマタであろうと、ミッチャー・サマタであろうと、統一感が形成されると、そこにはある種の「力」を伴うことがあります。
ですのでミッチャーサマタでもヒーリングや透視といった通力や超能力も出てきます。正しいサマタでもミッチャー・サマタでも、現象としては、同じようなことが起きます。
よく新興宗教で願いがかなったとありますが、これは、願う者の心が引き起こしている現象です。
ここで整理すると
◎仏教が推奨するサマーディ ⇒ 空の通力(煩悩、執着から離れたところから生じる力)
◎ミッチャー・サマタ ⇒ 有の通路着(煩悩や汚れに基づくところから生じる力)
となります。
「現象」「力」だけを見れば、正しい方法もミッチャー・サマタも関係ありません。
不思議な能力、奇瑞、奇蹟を起こしたとしても、それが清らかな心から生じたものなのか、欲望に根ざした邪な心から引き起こされたものなのかは、分かりにくいところがあります。
お釈迦さまはパーリ長部経典の「堅固経(ケーヴァダッタ経)」では、「神通力は恥である」とおっしゃっています。実は、お釈迦さまは、途中から神通力を積極的に推奨することが無くなりました。しかも「恥」とまでおっしゃっています。
神通力が「恥」と言われる理由は、お釈迦さま在世当時にもガンダーリやマーニカといった奇瑞・奇蹟を起こす呪術があったからです。
これらの呪術は、煩悩に根ざしていたのでしょう。仏教の神通力は、煩悩の無い状態で生じる現象です。見た目は同じ現象に見えても(奇蹟や奇瑞を起こしても)、心の状態が全く異なるわけです。
しかし、凡人には、この違いが分からいことも多くなります。ですので、人々を惑わす恐れがあるとして、お釈迦さまは神通力や奇瑞を起こすことを推奨しなかったわけです。
三法に帰依をし、仏道修行を歩む者は、ミッチャー・サマタにかかわってはならないでしょう。仏道は、瞑想をするしないに関わらず、「戒律」を守り、表面意識レベルからの浄化を実践していきます。
これは仏教が、心を浄化するアプローチを軸にしているからです。仏教は戒律を基本としています。言葉を変えれば、「心の浄化」がスタートです。
その上にサマタ瞑想などが成り立っています。軸は「心の浄化」です。ですので、心を不浄にする、不浄のまま瞑想を深めるミッチャーサマタを禁止するわけです。
仏道修行では、心を浄めないもの、不浄にするものはさまたげになります。ですので仏教徒はミッチャー・サマタを行うことを禁止するわけですね。