農地改革による日本仏教の衰退

農地改革による日本仏教の衰退

日本の仏教が堕落しているという指摘を受けて久しいですね。よく聞きますよね。

高額な戒名料を取ったりする「葬式仏教」であるとか、現世利益を実現する「祈祷仏教」であるとか、あるいは観光地化させて、その拝観料で稼ぐ「観光仏教」であるとか。いろいろと揶揄もされています。

当初こういったことを見聞したとき、これは「日本の仏教に携わる人達の精神的な堕落」と思っていました。しかしこれは誤りであることに、やがて知るようになります。

端的にいえば、日本の仏教が堕落した最たる原因の一つが、戦後、アメリカGHQが推し進めた「農地改革」です。

こういう話しを聞くと「え!?」と驚く方が圧倒的です。しかし事実は、この通りです。

日本の仏教は、アメリカによって破壊されたというのは過激な言い方ですが、当たらずとも遠からずなところがあるでしょう。

もちろん昔から、堕落した僧侶は時々出てはいました。封建的といえば封建的ですし、これにあぐらをかいての特権階級や利権もあったようです。こういう悪い面もありました。

しかし、反面、仏教的な精神や高尚なマインドを持っている人にとってはありがたい仕組みでもありました。高い志を持った人が生きやすい・生活しやすい「仕組み」が、戦前にはまだあったということなのです。

戦前まであった「寺社と小作人の共存共栄システム」

GHQによる農地改革が導入される前は、日本の仏教寺院は「寺社領(じしゃりょう)」という土地を保有していました。

寺社領とは、寺院が自ら開墾した土地や、寄進を受けた土地です。これらの土地には小作人が住まわれて、その代わりに農作物を作り、一部を寺院に提供することをしていました。

小作人は、生活できる「家屋」と「仕事」があり、僧侶は「純粋な精神生活」をしながら、食べるための「食料」が最低限、得られていました。

いわば、寺院と小作人による共存共栄のシステムです。このシステムの歴史は長く、1300年前の奈良時代にさかのぼります。

日本史を勉強した方はおそらくご存じだと思いますが「墾田永年私財の法」という法制度です。飛鳥時代などでは、全ての土地は国家のものでした。しかし奈良時代に入ってから、土地は国民の財産にできる制度に変わりました。

この「墾田永年私財の法」のおかげで、寺院や神社は、自給自足の生活ができるようになります。

寺院が保持する「寺社領」という田畑によって、戦前の僧侶や神官らは、最低限、食べることは保証されていました。非生産的な生活を送りながらも、生活基盤は守られていたということです。

元々、仏教では「托鉢」をもっぱらとして食べていました。日本の場合、托鉢の代わりに「寺社領」があったわけですね。

寺社領で育まれ守られていた仏教の精神

ですので、昔は、仏教寺院がビジネス化に走ることは、仕組み的に起きにくかったわけです。戒名や葬式で儲けたり、祈祷でお金を稼ぐことは、昔はメインにはなり得なかったわけです。

祈祷や戒名でお金を頂戴したとしても「まあ、慣習になっていることだし、求められればやりましょうか」といった、オプション的な扱いでした。今のように戒名や祈祷が生活の基盤にはならなかったわけです。

もちろん、いつの時代にも仏教精神と反して悪徳に走る人も出てきたことは言うまでもありません。昔もそうです。しかし高尚な志を持った僧侶が生きやすい・生活しやすいシステムが、戦前まではあったということです。

そして現代ではほとんど不可能ということです。この違いは非常に大きいでしょう。

実際、禅宗の世界には、戦前は、優れた僧侶も数多くいらっしゃいました。私のブログは原始仏教を扱っていますが、戦前までは日本の仏教界、特に禅宗の世界には、執着を離れて「空」に生きる立派なお坊さんらがいました。

しかしこういう生活ができる基盤は、農地改革によって失われてしまったわけです。といいますか、GHQによって、仏教的な生き方は不可能となり、その仕組みも破壊されてしまったわけです。

そして日本の仏教が、ますます堕落していったという事実と歴史が作られていったということです。

高尚な精神生活を過ごすためには社会基盤や制度が必要

歴史を見ていきますと、「土地を私物化できる」ということから、「人間の自由」が誕生しています。先に制度やモノありきです。その後に、自由精神のイデオロギーや思想が定着もしていきます。

ですので、「制度によって仏教精神を維持できる」ということは、実は大変重要です。仏教のように精神世界を扱うジャンルでは、ビジネス的な発想や物を中心とした見方や考え方は盲点や死角になりやすい所があります。

しかし、高尚な精神活動を続けるためには、また隆盛させるためには、まず制度や環境整備が必要ということです。

お釈迦さまが生きていらっしゃった時代ですら、当時は「出家の推奨」「出家を支える社会システム」が存在していました。現在のインドでもそうです。またタイやミャンマーにも出家比丘を支える仕組みや社会的基盤があります。

社会的な基盤やインフラがあってこそ、高尚なマインドも実現もしやすくなります。また、高い精神活動が社会に認められやすくなります。

高尚な精神活動が定着し、慣習となりますので、奇異さは無くなり、軋轢を生み出すことも少なくなり、健全なかたちで求道的な生活もできるようになります。

日本の仏教寺院、または神社もそうですが、奈良時代に作られた「土地の私有制度」が功を奏して、長い間、良い形で「自給自足」を維持できました。

農地改革によって寺院は煩悩を手放すことができなくなった

ですが、戦後、アメリカのGHQによる農地改革で、寺院が保有する寺社領は、国に安く買い上げられてしまいます。実質的に「没収」です。

そうしてそれを小作農に払い下げて、寺院や神社は分断もさせられます。高い精神性を保つ社会基盤の喪失と、共存共栄のシステムの完全なる破壊です。

残ったのは檀家制度です。しかしこの檀家制度も最近は、、葬式の形骸化や縮小によって衰退の途をたどっています。寺院がますます困窮し、衰亡するかのようです。

このように農地改革によって寺院は大打撃を受けています。食べるための生活基盤を失いました。ここから、食べていくために、ビジネスをせざるを得なったということです。

葬式(戒名)、祈祷、観光、あるいは不動産業といったビジネスは、戦後、盛んになった仏教のビジネスです。戦前はそれほどメインにはなり得ないものでした。

しかし仏教がビジネス化することで、本来手放すはずの「欲望」「煩悩」を手放すことができなくなります。反対に欲望や煩悩といった「三毒」を強めざるを得なくなります。

なぜなら現代のビジネスの本質は、欲や不安・怒り、無知といった三毒・煩悩を刺激して行うのが本質だからです。仏教のビジネス化は、仏教の堕落のみならず、即死を意味します。

共存共栄し幸福になれるシステムを破壊した農地改革

農地改革により、日本の仏教寺院はビジネス化していったわけですが、先述の通り、僧侶達は「手放す生き方」「無執着の生き方」がますます困難になっていきました。

そりゃそうでしょう。食べるために何とかせにゃならんわけです。昔のように小作人さんがいて、お米や野菜を提供してくれたのとは違います。黙っていたなら飢え死にしてしまいます。

しかし黙っていても食べ物が手に入るということは、真摯な仏教実践者にとって、これ以上、有りがたい仕組みはありません。なぜなら、純粋に精神的な修行も可能だからです。

この仕組みを依存とか寄生と揶揄する方もいますが、これは短絡的な物の見方です。
パーリ経典の中部に「施分別経」というのがあり、ここには「清らかな精神を持った者へ供養・布施をするなら功徳は大きい」とあります。

これは仏教のご都合主義による教えではなく、清らかな人を助けることは、死後、天界へ転生する善行の一つです。

心を鍛え修行し、純粋に清らかな精神生活を送る人と、これを支える人との関係は、まさに「共存共栄」です。お坊さんは悟りを目指して修行し、小作人さんは仕事をしながらお坊さんをも助けることができる。お互いが幸せになれる優れた仕組みです。

日本の仏教寺院にも昔は、寺社領という制度によって、共存共栄し、幸福になれるメカニズムがあったわけです。小作人さんは仕事と生活が保障されながら、求道者を助けることができる、そういう互助の仕組みが、しかも自動的に働く仕組みがあったわけです。

農地改革は、「共存共栄し幸福になれるシステムを破壊した」とも言う所以です。

農地改革により新興宗教が盛んになる

仏教が、戒名・葬式・祈祷・観光によってビジネスを展開せざるをえなくなってから、次第に高尚な精神性は失われていきます。先述の通り、三毒という煩悩がビジネスの本質だからです。

しかしやがてビジネス特有の「取り引き関係」が、仏教にあっても「おかしくない」といった考え方が蔓延していきます。ついには常識化もしていきました。

これが戦後、新興宗教(新新宗教)が急速に拡大した大きな理由だと考えています。宗教に取り引き関係を持ち込んでいるのは、キリスト教くらいでしょう。「神との契約」とすら言っています。

しかし、仏教にには神や仏との「取り引き関係」はありません。仏教は、取り引きや、契約といった関係は無く、むしろこうした取り引き関係や損得勘定の精神を否定し、脱却を説きます。

仏教がビジネス化し商売熱心になる風潮が広まって常識化すると、「なあんだ、仏教もホトケさまと約束とかするのね」とか「仏教も商売しないとやっていけないんだなあ。仏教の教えと正反対なことをしてるじゃん。偽善だね」と、勘違いもされてきます。

そうすると、既成のお寺や仏教に幻滅し、新興宗教へと人は流れていくことも出てきます。また、取り引き関係を教義に盛り込んだビジネス宗教が登場しても、違和感も抵抗感も抱かずにすんなりを受け入れて、新興宗教の信者にもなってしまいます。

戦後の農地改革が、仏教の精神を破壊したと指摘する所以です。

これが昔のように「食べるための最低限の生活基盤があればいい」「農作物だけもOK」といった、素朴で守る姿勢だけでも生きてこれた風潮や基盤があったならば、新興宗教が広く蔓延することは起きなかったと思います。

GHQによる農地改革は、様々な方面に悪徳を蔓延させたと思います。

日本の仏教を再興させ活性化させるためには

戦後の寺院歴史を知りますと、本当にお気の毒としか言いようがありません。戦後の農地改革は、仏教寺院の経営を破壊し、同時に、仏教的精神をも衰退させました。

破壊や衰退に加えて、悪徳を蔓延すらさせました。農地改革は、寺院や神社にとって悪法といっていいくらいの政策だったと思います。

せめて、寺院の寺社領だけは、農地改革の対象にしないなどの配慮が欲しかったですね。神社が保有する神田もそうです。神社の田畑も、農地改革で没収されてしまっています。

アメリカのGHQが推進した農地改革は、寺院や神社が「生きていく」という基本的な部分を取り壊しました。この結果、寺院や神社が長い間保ち、地域に貢献もできてきた仕組みや機能を失わせてしまいました。

しかも仏教特有の精神を歪め、悪徳を広める結果となりました。農地改革は、日本の精神文化にとって、悪法の中の悪法の一つと考えてよいでしょう。

テーラワーダ仏教では227の戒律があります。日本でも上座部仏教と同じ戒律を設け、戒壇制度を作ってはどうかという提案もありますが、戒壇の前に、まず日本の仏教が仏教的精神を実践できる制度なり環境整備が必要ではないでしょうか。

日本の仏教を再興させて活性化させるためには、まず寺院が仏教的精神で「食べていける」ような制度なり仕組み、社会的な基盤を整えてあげるとか、何らかの新しいやり方を導入する必要があるでしょう。それが急務です。