地獄へ行かないための慚愧と五戒~罪の帳消しはできない

地獄の話しは相当なショックを受ける話しであろうと思います。実際、テーラワーダの比丘の中にはあえて語らない・言及しない方もいらっしゃいます。理由はいくつかありますが、輪廻転生は通常、自分で確認できないからでしょう。それと衝撃が強すぎて、耐えられない人もいて、事実を告げることでかえって心が汚れる人も出てくるからだと思います。

しかし一方では、実の引き締まる思いをし、戒めとして克己心を強くする方も出てきます。地獄の話しを知ることで、身の引き締まる思いをし、気持ちを奮い起こす方のほうが多いと思います。

ですが、受け止め方は十人十色。こうしてブログの記事に書いて、人によっては受け入れがたい事実となる方も出て来ると推測もできるため「書くのはちょっとどうかな」と思うところがあります。文字だけの表現も難しいですね。全てを言い尽くすこともできません。たとえば「地獄の者を救済できない」と言っても、それは何も地獄に墜ちた者を突き放す意味ではありません。しかし読者の中にはそのように早計する方もいらっしゃるかもしれません。

パーリ仏典、あるいは漢訳の阿含経には、地獄へ行った人達の話がいくつか掲載されています。中には出家修行者が語る生々しい前世の悪業における地獄と輪廻転生の実話も載っています。これらはあまりにもショッキング過ぎますし、身に憶えのある方がお読みになると、その後の人生に絶望するのではないかと心配もします。だから、こういったリアル過ぎる話しはブログには書けません。あまりにもショックが強すぎると思うからです。

五戒や十善戒は常にに念頭に置いて心がけ、そうしながら併せて施(愛)の心を持つことです。両方が必要です。現代は、「戒」を疎かにしがちです。身を「戒める」ことを毛嫌いする傾向があります。ですがこれはよくありません。

しかし衝撃が強いのと誤解されそうなことから地獄の話しは今日で一旦、お終いにしますが、地獄に墜ちますと、業によっては再び地獄(小地獄)に転生します。たとえば無間地獄に墜ちて業が尽きたと思ったら、今度は隣接する小地獄へ転生することもあるようです。冗談ではなく、地獄巡りをするケースもあるようです。

しかも地獄の業が尽きて別の六道に転生できたとしても、その次が動物であったり餓鬼であったりすることも珍しくないようです。稀に人間に転生することもあるようですが、よほど善業を積んでいない限り人間への転生は難しく、地獄・畜生・餓鬼といった三悪趣を巡ることが多い印象です。

ですから、ホントに悪業は避けなければなりません。それと一般的に考えられていることとは違う「常識の嘘」があります。その一つが、「業の帳消し」という考え方です。

罪の帳消しはできない

悪いことをしても、良いことをすれば帳消しになる、と一般的には考えられていますが、こういった帳消しはありません。これも大変ショッキングな事実となる方もいるかもしれませんが、悪を帳消しすることはできないようです。何らかのかたちで業の報いを受けるようになるようです。

ですので、仏教では口を酸っぱくして「悪いことをしなさるな、悪いことしなさるな、戒を守ってください、戒を守ってください」と言うのですね・・・。何も悲観的、ペシミストだから、悪いことをするな・・と言っているではないということです。

あまりこういうことを言いますと、萎縮してしまうことも出てきますので言いにくいのですが、事実はこの通りとなります。

しかし決して悲観してはなりません。大事なことは善を重ねることです。悪が結生化しますと、地獄や畜生、餓鬼への転生となりますが、人間に転生できれば、人生上の中で悪の報いを受けることができます。最小限の形で悪の報いを回避することはできます。ですから、仮に悪行をしたとしても絶望しないで、それ以上の善行を行うことですね。実は、人間とは特殊な生命なのです。このことはまた近いうちにお話ししましょう。

原始仏典を読んでいますと、五戒や十善戒を破ることが常習化していますと、ほぼ確実に地獄へ行くと思われます。明らかに言動が悪すぎることを続けているのはもちろんですが、日々の生活で恨み言、批難する気持ちなどネガティブな気持ちにずーっととらわれることが多いと問題があるようです。
人間ですので過ちをしますが、過ちを犯した場合、また気付いた場合、早めに懺悔して軌道を修正するのがよさそうです。

気をつけたい無慚・無愧の煩悩~慚(ヒリ)と愧(オタパ)の心を養う

ところで煩悩のうち無慚(むざん)・無愧(むき)というのがあります。よく「慚愧(ざんき)の念に堪えられない」といいますが、この慚愧の反対が無慚(むざん)・無愧(むき)です。無慚・無愧とは「恥知らず」「反省心が無い」のことをいいます。そして仏教では、無慚(むざん)・無愧(むき)は、全ての悪の根本的な原因ともみなしています。

「恥知らず」とは、実は「気付きの無い」状態です。気付きが無いから、恥知らずなことを平気でできてしまうのですね。最近は「KY(空気読めない)」という言葉もありますが、KYは無慚(むざん)・無愧(むき)の煩悩が原因です。恥知らずは、非常識、デリカシーが無い、鈍感でもあります。

ですので、反対に慚愧の心が必要になります。
戒を守るためには

慚(ざん)・・・悪を行うことの恥じらう心
愧(き)・・・・悪を行うことを怖れる心

の心が必要です。パーリ語で「慚」を「ヒリ」、「愧」を「オタパ」といいます。
つまり、悪行を「恥ずかしいこと」「恐ろしいこと」と感じる心です。
ヒリとオタパがあってこそ、初めて戒律を守ることができるのですね。

よく成功するためには「運・鈍・根」といいますが、気配りのできている鈍感は良いのですが、正真正銘の鈍感となりますと、罪作りになります。ここを勘違いして、鈍感になることが良いことだ、何でも気にしないのが良いことだとするのは危険です。「気付いていて鈍感になれる」というのが望ましくなります。

ちなみに「気付いていながら鈍感」とは「気付いていながらの冷静さ」という意味です。この状態こそ、「気付きの瞑想」です。

鈍感では心の成長もはかれません。気付きの瞑想が何故、必要なのかといいますと、鈍感さを無くすからですね。気付きの瞑想によって、様々なことを察知し、繊細なところまで気配りができ、TPOに適した行動もできるようになると思います。

無慚(むざん)・無愧(むき)の傾向が強い方は、知らず知らずのうちに悪を行ってしまうことが出てきますので、戒を意識して、しっかりと言動に注意していく必要があります。

地獄へ行くと非常に苦労します。苦労というレベルではなく、悲惨です。知らず知らずのうちに悪を行わないように、無慚・無愧を犯さないよう、気付きの力を高めて自己の心の動きを観察し、本当に注意したいものです。決して他人事ではなく、また自分を棚に上げる気持ちは毛頭ありませんが、本当に誰もが心の状態を常に観察しチェックし、健全性を保つ必要があると思います。そうしながら大きな愛の心を育んでいくことだと思います。どちらも大切なことです。

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