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今ここに〜原始仏教の瞑想

原始仏教の瞑想について今日はお話しましょう。

 

原始仏教の瞑想は定(じょう)・念(ねん)の二つから構成されています。
これはネットでも検索すればたくさん出てきますのであえて詳しい説明はいたしませんが、ざっといいますとこのようになります。

 

・定(じょう)・・・禅、ジャーナ、禅定、サマタ、サマーディ、止、と言われる瞑想。
・念(ねん)・・・サテイ、気付き、観、ヴィパッサナと言われる瞑想。

 

天台宗に伝わる「摩訶止観(まか-しかん)」の「止観(しかん)」こそ、この「定と念」になります。
実は、日本の仏教には「定」は伝わっています。
観想念仏や阿字観は、まさに止(サマタ)としての瞑想になります。

 

ですが、「念(サティ)」、つまり「観」の意味が正しく伝わっておらず、
文字通り「念じる」「観想する」といった誤解のまま日本で伝わっていました。
「念じる」とか「観想」ではなく「サティ:気付く」が本当の意味になります。

 

もっとも、禅宗には「気付きの瞑想」が伝わっていました。
禅宗における只管打坐(しかんたざ)の坐禅は「念(サティ:気付き)」の瞑想になります。
臨済宗の数息観も念(サティ)です。
ただ、これらの坐禅が「念(サティ)」として認識はされておらず、
禅宗の文脈の中で理解解釈されていました。

 

仏教の瞑想においては、この「念(サティ:気付き)」こそ最も重要で、特徴にもあります。
「念」こそ仏教瞑想のエッセン中のエッセンスになります。
極論しますと「念」こそ仏教と言える程です。
これだけ重要な修行が、長年、正しく伝わってきていなかったということですね。

 

ですが、スリランカ、タイ、ミャンマーなどの東南アジアには各種の技法も伝わっていて、
現在も仏教の修行と瞑想が行われています。

 

「念」、「サティ」、「気付きの瞑想」は、「今ここ」空間を形成するところから始まります。
先述の通り、「今ここ」といえば禅宗にも伝わっていて、実は、ほぼ同じです。
禅宗の「今ここに」と、「念」の入口はほとんど同じと言って良いでしょう。
禅における「あるがまま」は、「そのまま受け止める」といった「受容性」ですので、大変よく似ています。

 

「今ここに」の深い浅いはあると思いますが、まずは「今ここに」を知っていただくことが大事であると思います。
「今ここ空間」が深く形成されなくても、「今やっていることに気持ちを集中する」ということを、
たとえば10分でも20分でも行っていると、気持ちが切り替わっていきます。

 

これは実際に行ってみるとわかります。
瞑想会では各種の「気付きの姪すお」により、「今ここに」を体験していきます。
これによって、今行っていることへの「気付き」が養われていきます。

 

この方法は、「瞑想」というスタイル以外でもできます。
たとえば掃除です。
掃除をする際、漫然と行うのではなく、行為や動作を確認しながら行っていきます。
これを10分、20分と続けていきますと、掃除の最中は、心は動作に向けられています。
途中で雑念が出てきても軽くスルーして、また動作の確認を続けていきます。
こういうことを行いながら掃除をしていますと、終わった後はは心がスッキリします。

 

これが「今ここに」です。
今ここに気持ちを置く体験はすぐにできます。
この感覚が分かるだけでもしめたものと思います。
そして、瞑想会では、まずこういった感覚を体験していただくことに主眼を置いております。

 

もちろん「今ここ」を深めるためには、仏教のより深い洞察や実践も必要になってくると思います。
けれども現代人でここまで仏教への習熟を極めようとする方は大変少なくなってくると思います。

 

ですが、深い部分まではいかなくても、入口の部分だけであっても必ず役立ちますので、
できるだけ多くの方々に知っていただくのは有益なことと思います。

 

近年では、成功法則や成功哲学といった脳内にイメージを描いて、そのビジョンと実現化する方法が広がっています。
ですが、仏教の方法は、これとは正反対の方法を取りまして、ビジョンは描かず「今ここに」を目指していきます。

 

心を切り替えるために、何か別のイメージなりヴィジョンを与えるのではなく、
今行っていることをやさしく見守っていく(観察していく)方法ですね。
これを行いますと心が静まってきます。
心のつぶやきが減っていきます。

 

なかなかすぐにはこういうことが自然にできるようにはならないと思いますし、
私も実習中の身ですのであまり言えませんが、仏教が説く方法とは、このようなやり方になります。

 

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2012/05/14


気付きの瞑想の目的

気付きの瞑想は仏教で重視されるのも、煩悩を生起させなくなるからですね。
在家の場合は、完全に行うことはまず不可能でしょう。受⇒渇愛の連鎖をキャッチするのも相当に難しくなるでしょう。しかし、こういう教理通りの現象を体験できなきても(またそれを意識する必要もありません)、気付きの瞑想を続けていけば、心がうるおってきます。

 

四聖諦では、「【苦・集】も了知する」するとあります。これは分かりやすくいえば、「自分が苦しんでいること、自分の心の状態、原因、そういったことに気付きなさい」ということですね。

 

案外、人は自分のことが分かっていません。気付きの瞑想をする以前に、「自分のことを知る」ということは大切なことです。自分を知ることは、瞑想とも関連しています。

 

人は知らず知らずのうちに人を苦しめていることがあります。特に最近はテレビなどの影響もあってか、ぞんざいな言葉を吐いたり、小馬鹿にするようなことを言うことが親しみであると勘違いして、相手を傷つけているケースもあります。

 

世の中の平和を説いたり実現を目指すなら、まず、自分自身をよくすることが必要である、というのが原始仏教の中心的な考え方です。しかしこれは決して個人主義という考えでは無く、慈悲や愛といったものを包括した上での考え方であり立場です。要するに優先順位ですね。

 

しかし気付きの瞑想を行って、それが正しく進んでいくなら、必ず、自分の姿に気がついてきます。客観視ができるようになるのですね。良いと思って行っていたことへの本当の動機に気付いたり、自分の普段の言動の様に気付いたり、さまざまな気付きが得られます。

 

気付きの深い・浅いは人それぞれでしょうが、気付きが深まっていくと、自ずと洞察力も深まり、物事をより深い視点から見ていくこともできるようになるのではないかと思っています。

 

しかし「気付きの瞑想としての境地」みたいなものを求めるなら、こういった自己改革に直結する体験は得られないでしょう。仏教は結果を目指すものではなく、現在形で行っていくものです。

 

気付きを養うにつれて、自分が見えてきます。
自分が見えてくると、まず無理なこと、無茶なこと、相手を悩ますような言動はできなくなってくると思います。そうして、こういった人は端から見ると、とても自然体に見えてきます。

 

何も悟りを得るとか、何かの境地を得るとかではなく、自己改革、自分の心を浄めることができるのが気付きの瞑想の目的であり、仏教の目指すところになると思います。

 

そして、こういったことは昔の言葉でいえば「奥ゆかしい」とも言えるでしょう。実に日本の精神文化にも直結する、すぐれた瞑想、それが気付きの瞑想であろうと思います。

 

決して出家だけのものではなく、一般生活を過ごす現代人にとって計り知れないメリットがあると確信する次第です。

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2012/05/17


気付きの瞑想で心を癒す

気付きの瞑想は心を癒す効果もあると思っています。
こちらの日記では、自己主張の強い自我、エゴに気付くことを書きましたが、日本人の多くは、むしろ「自分を責める」方向にマインドが向きやすいようです。

 

これと関連するのが、うつ病の増加かもしれません。今や国民病となるほど、多くなっています。自分を責め続けて硬直化した結果、症状に陥っているのではないかと思います。

 

日本人はメンタリティとして、気を配ったり、自分を控えたりして、反省や内省はしやすいのですが、自己肯定が苦手な傾向があるようです。

 

自己内省をし過ぎる場合は、自己肯定をして、バランスを整えていく必要がありますね。
気付きの瞑想をすることで、自分を過剰にいじめていたり、責めている心に気がつくことも出てくると思います。不当に自分を抑えていたり、虐げていることに気がつくこともあるようです。あるいは何かに強く依存していたりとか。この辺りの気付きは、人それぞれあると思います。

 

ですがこういったことに気付いたら、自分をやさしく見守って、解放させてあげるといいですね。「今までごめんね」「よく頑張ってきたね」と思って、その瞬間、涙があふれてくることもあるようです。

 

あるいは全然関係の無い映像が出てくることもあるようです。それは象徴的なヴィジョンで、その映像を見ていくに従って、次第に自己を解放し、悪い性癖が小さくなったり、悪習慣が無くなった方もいます。

 

気付きの瞑想を続けていると、人それぞれ、何らかの自己改革の体験が起きるようです。こういう事例はたくさんあります。見聞している話しの中には、ビックリするような話しもあり、瞑想の素晴らしさを思います。

 

もっとも、際だった体験がない人もいますし、そういう方のほうが多いかもしれません。またあえてそういう体験を求めるのもナンセンスだと思います。結果をあえて求めようとするにも、この実践では本末転倒にもなりますし。
それに、特徴的な体験が無くても、それまでの自分と今の自分とが違ってきていることは実感することが出てくると思います。他人から見て小さな変化であっても、自分にとっては大きな成長ということはしばしばありますね。

 

イライラしやすいのが減った、怒りっぽいのが少なくなった、自分を責めるのが減った、穏やかになれる時間が多くなった等々。人それぞれ心のバランスを取り戻し、健康的な方向へ向かっていくと思います。

 

 

日本人は、多くが自分を責めやすといいますね。
しかしこのことは見方を変えますと、それだけ相手に気を使い、エゴを控え調和を重んじる素晴らしい美徳を持った国民性なのだと思います。

 

ですが他人に気を使うなら、同じように自分にも気を使う。
他人に親切にするまら、同じように自分をも親切にする。
この辺りのバランス感覚が一番理想的なのかと思います。
そしてこのバランス感覚が気付きの瞑想によっても養われていくのではないかと思います。

 

瞑想によって、自分を癒してバランスのある心にできるといいですね。
人それぞれにしたがって、きっとできるようになると思っています。

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2012/05/17


煩悩の汚染を取り除く「心の浄化法」

仏教とは、一言でいってしまいますと、

 

縁起を使って執着(または無明)を引き起こさずに心を浄める方法

 

となります。※関連記事はこちら「縁起

 

仏教は、心を浄める教えと実践です。
心を浄めるとは、煩悩を無くすことです。
煩悩を無くし、減らしていくことがいかに大切かは、輪廻転生の実際を知るだけでも相当理解が深まると思います。もっとも輪廻転生を信じられない方にとっては別かもしれません。

 

大事なことは、仏教では心を浄め、煩悩を無くす方法に縁起を使うということです。仏教で「縁起」が重視されるのは、何も世の中が縁起という因果関係で出来ているからではなく、縁起の作用を使って煩悩を無くしていくことができるからです。

 

お釈迦さまは縁起を使って煩悩を断滅する方法を再発見し、それを四諦・八正道として説かれました。

 

縁起を使って煩悩を無くす具体的なやり方は、視覚、嗅覚、味覚、聴覚、触覚、意識といった感覚器官が受けた情報レベルで「気付き」を入れて、好き・嫌い・無関心といった煩悩への連鎖を引き起こさなで、心が清まった状態を保つ方法になります。

 

一言でいえば「気付きを入れる」ということを日常茶飯事の瞬間において行っていくことになります。しかし一般人の我々は、ここまでのことはなかなかできません。ですので、日頃、できるだけ気付きの瞑想を実践して、煩悩の汚染をできるだけ回避することになっていくと思います。

 

「気付きの瞑想」であり、「今ここに」が何故必要かといえば、上記のことが理由になります。
「気付き(サティ)」は、テーラワーダ仏教の最大の特徴であり、お釈迦さまの瞑想のエッセンスとなります。ですので「気付きの瞑想」が推奨されるわけですね。心を浄める仏教の方法です。

 

 

心が煩悩に汚染されたら・・・

 

しかし実際の生活の上で、気付きの瞑想が間に合わないといいますか、もっと強力な方法で心の汚染を取り除く必要があることも少なくないと、個人的には感じてます。

 

一般生活を送っている私たちは、様々なことに出会います。時には、強い不快感を受けて嫌な思いをし、それが続くこともあります。一時的に嫌な思いをするのですが、それが尾を引く場合もあります。

 

煩悩が広がってしまった状態ですね。心の中に巣食ってしまい、占有してしまいます。何かフっとしたときに「あの時に・・・」とブツブツ・・・と心の中で言い始めます。

 

一番良いのは、不快感が自分の中に拡大し始める時に、「気付き」を入れることです。そうすれば、不快感は拡大しないで済みます。

 

しかし、いったん拡大して、心を占有してしまった場合、「気付きの瞑想」だけで対処できない場合もあろうかと思います。もちろん、気付きの瞑想に熟達してくれば、大きく成長した煩悩の心のクリーニングもできるでしょう。

 

ですが、実際問題、一般人がそこまで気付きの瞑想に熟達できるのは、なかなか難しいと思われます。

 

こういう時、心を切り替える方法がいくつかあり、これらを駆使していくことは実際的な対処方法であろうと思います。

 

 

プラスの言葉を唱える

 

有効なのは「自己暗示」です。イメージトレーニングですね。プラスの言葉を自分にかけることです。
この方法は、基本的にはおすすめできませんが、緊急時、心を急速に切り替えるためには有効です。アファーメーションの方法は即効性があり、心を切り替えるには大変有益であると思います。

 

ただし、心が切り替わったら、それ以降は使用しないことが良いと思います。一種の「注射」のようなものだと思ったほうがいいのではないかと個人的には感じています。症状を抑えるための注射です。自己暗示は、無意識レベルでストレスを与えますので、多用が避けた方がいい感じです。

 

自己暗示、アファーメーションは完全に良くないといのではなく、多用することが良くないのですね。この辺りの微妙なニュアンスは理解する必要があるでしょう。

 

しかし一時的に心を切り替える方法としては効果があります。

 

 

微笑みながらリラックスする

 

また普段の心得もあります。
それは「リラックス」を心がけることです。落ち着くことです。心を常に、伸びやかな感じを保ちながら落ち着きを持たせることですね。肩の力を抜いて、微笑むくらいが丁度良いと思います。

 

ティック・ナット・ハン師は、ほほえみながら呼吸に気付く日常の瞑想を推奨しています。微笑むことは良いことです。適度に力が抜けて、リラックスした状態、それが微笑んでいる状態だと思います。

 

ほほえみのあるリラックスを日常化したいですね。そうすれば、心もいつも軽く、穏やかで、明るい状態になると思います。煩悩に占有されにくい状態でもあると思います。

 

 

慈悲の瞑想をする

 

また慈悲の瞑想をするといいと思います。
瞑想といっても、日常生活の場合、プラスの言葉と同じような感覚で、自分に言い聞かせると良いと思います。慈悲の状態を自分に言い聞かせてあげたり、慈悲の状態を体感したり、慈悲の気持ちに満ちあふれるように感じ取るようにすると良いと思います。

 

 

なかなか「気付きの瞑想」一つだけで自分の心を健全化していくのは、在家の場合、困難を覚えるとこがあるかもしれません。そういうときは上記の方法を併用しながら、セルフコントロールするのがおすすめです。良き輪廻転生ができる精進にも役立つと思います。

 

ぜひとも日々の生活の中で取り入れて実践されてみてください。

 

 

【今日のポイント】
心を落ち着かせて、清らかにしていく方法としては、

 

・気付きの瞑想
・プラスの言葉
・微笑みながらリラックス
・慈悲の瞑想

 

これらを組み合わせて心を清らかに保っていくのが実際的であろうと思いますし、こういうやり方もあると思います。

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2012/06/28


文明国の仏教修行

文明が進むにつれて、世の中、資本主義が蔓延していますね。
といいますか、今のところ、

 

文明=資本主義

 

といったのが主流な様子です。
よく物質文明なことが悪者として扱われますが、私は物質文明は悪いとは思いません。問題なのは、進め方だと思っています。端的にいえば、資本主義が持つマイナスな側面が犯人だと思っています。

 

物質文明はありがたいものです。
特に医療。
医療は素晴らしいと思います。
もちろん度が過ぎたり、誤った医療行為もあります。
そういうものはを抜きにすれば、医療は素晴らしいですね。
また自動車を始めとした交通機関を発達発展させてきた鉄鋼関連、機械、建築産業も素晴らしいです。

 

けれどもこれらの物質文明は、資本主義という煩悩を強化する弱肉強食のフレームの中で進められていますので、どうしても無理や殺伐としたものが内包されてきます。

 

他社よりも、より早く、より安く。より多くの顧客・ユーザーの獲得。販路拡大。
こういったことをしていかないと、自社が潰れてしまう恐れもでてきて、結果的に欲望・恐怖・無知を強めていかないと生き残れない(文明を促進できない)といったことになります。

 

物質文明は素晴らしいと思いますが、そのアプローチが、煩悩を強化する資本主義の手法ですので、どうしても無理や矛盾が出てきます。私はそう考えています。

 

物質文明の社会で生まれ育った現代人は、こういった背景を無意識のうちに背負っています。

 

 

文明人に必要な条件
そして、仏教の修行をする際、この文明人(資本主義)特有のクセを排除していかないとなかなか進まないといった現実があるようです。

 

これは修行の進んだ某指導者から聞いたことになります。

 

アジアで仏教が盛んな国にミャンマーがあります。
ミャンマーといいますと、軍事国家というイメージがありますが、実際は素朴で牧歌的な所のようです。仏教国ですので、とてもやさしいといいます。

 

ミャンマーは、昔ながらの仏教(本来の仏教)をそのまま受け継いでいて、修行の途中で超能力が得られることも認めています。

 

パオ瞑想という所では、神通力を得ることが必須にもなっている程です。
ですが、カルトではありません。
ものすごくノーマルで、高尚なところです。

 

しかし超能力と聞けば、日本人の多くの場合、先ず好奇心や欲望がムクムクと起きてしまいます。中には、能力開発を思い、ライバルに勝つための能力として受け止める人や、現実逃避のものとしてあこがれを持ってしまう人も出てくるでしょう。

 

ですが、こういったメンタリティを持ったまま修行へ進んでしまいますと悲劇が起きるようです。

 

仏教の修行では、欲望や汚れをもったまま進めていくと、かならず壁にぶつかるといいます。そうしてそれを無理に乗り越えようとすると、心身に変調を引き起こすようです。

 

こういったことが実際に起きていて、特に文明人に顕著だといいます。

 

ミャンマーの人々は、文明がまだ及んでいなこともあって性質が非常に素朴といいます。

 

のどかで、のんびりとした牧歌的な農村の多い所ですので、こういった所で生まれ育った方というのは、精神世界の修行を誤りなく出来る基礎が出来ているといいます。

 

文明が発達し、小さい頃からテレビやメディアの影響を受けていますと、欲望や論理的思考が染みついています。

 

自分が「欲望に汚染され、論理的や理屈で物事を考えすぎるのが強い」ということ自体を自覚できている文明人は、ほとんどいません。

 

といいますか、むしろ欲望を正当化させる理論武装にも走って、何とかして欲望を否定しないように策を講じていきます。これは資本主義というフレームの中で生きていくための現実的な対応策ですね。やむを得ません。

 

ですが、欲望を肯定したままの状態では、高度な精神修行はできないといいます。
もっと素朴で素直になる必要があるようようです。

 

欲望が強く、汚れた状態、高度な精神修行に進めば、おかしくなるからです。

 

 

日本人の場合は、まず、修行ができる基礎作りから行っていく必要があったりします。

 

日々のあり方自体、心がフラットで、安定していて、素朴な、そんな人間作りを意識的にしていかないと修行が進まないといったことがあるようです。

 

実は、この部分を仏教では「戒」と言っています。

 

これらのことは、教わらなくても、本能的に直観して気がついている人達もいます。

 

ですが、意識的に導いていかないと、現代ではかなり難しい様子です。
うつ病とか、そういった状態になってしまう方も多くなっていますので。

 

文明人の場合、仏教の修行以前に必要な条件があるようです。

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2012/07/23


ミッチャーサマタ(邪定)

テーラワーダ仏教では、推奨しない瞑想の仕方があります。
サマタ瞑想とヴィパッサナ瞑想ともに、やってはならないとされている瞑想の仕方があります。
今回は、テーラワーダ仏教で「やってはならない」とされているサマタ瞑想についてご紹介します。

 

そもそもサマタ瞑想とは、一点に集中する瞑想の仕方になります。
一点に集中するといっても、心を力強く集中することはしません。
といいますか、こういう瞑想の仕方が「やってはならない瞑想の仕方」の一つになります。

 

仏教の瞑想の仕方はソフトです。
また仏教で推奨するサマタ瞑想は40種類に分類されます。

 

テーラワーダ仏教圏で禁じているサマタ瞑想を「ミッチャー・サマタ」といいます。
ミッチャー・サマタとは直訳すると「邪定」といいます。

 

ミッチャーサマタとは、文字通り、邪な定(サマーディ)です。
では、ミッチャー・サマタ(邪定)とは一体、どういう瞑想なのでしょうか。

 

簡単に言ってしまえば煩悩に根ざしたサマタ瞑想です。
「煩悩に根ざした瞑想なんてあるんですか?」と聞かれそうですが、あります。

 

世の中には、見た目に同じ瞑想に見えても中身は別の瞑想があります。
仏教では、煩悩から離れる瞑想の仕方をしていきます。
禅宗の只管打坐でもそうですね。
心をカラッポにして瞑想していきます。
テーラワーダでも瞑想の基本は「気付き」「今ここに」「マインドフルネス」です。
これは煩悩から乖離するメンタリティになります。
このアプローチで得られる瞑想状態が、五禅支から始まる禅定(ジャーナ)です。

 

しかしミッチャー・サマタ(邪定)は、仏教で言うところの禅定にはなりません。
統一感をともなった変性意識にはなりますが、心の清まった状態ではありません。

 

 

ミッチャー・サマタの具体例

 

ミッチャー・サマタ(邪定)とは、外部の力を利用して、誘導して恍惚感に浸る方法です。
また煩悩を強める方法です。

 

一番わかりやすい具体例は「薬物」を使った瞑想です。
ドラッグを使った瞑想ですね。
麻薬、大麻、覚醒剤、LSDというのは、最も簡単にトランス状態になりやすいかもしれません。
しかしご存じの通り、心身に深刻なダメージを与えます。

 

薬物のほかに、ダンスや音楽を使った方法もあります。
ダンスで有名なのは、ケチャでしょう。
ひたすら踊りながら恍惚意識となってトランスしていきます。

 

また音楽でもあります。
音楽で誘導されて変性意識になる方法もあります。
ダンスや音楽は、薬物ほど重篤な疾患は引き起こしませんが、心は汚れています。

 

また、煩悩を強める方法としては、低俗な目標やイメージを使った方法があります。
これもミッチャーサマタに入ります。
好きなアイドルとか、欲しい物を対象とした瞑想は邪定になります。
成功哲学や成功法則も熱心に行えば、一種のトランス状態になりますので、ミッチャー・サマタと言っていいでしょう。この手の方法は、性欲や物欲を助長します。

 

 

ミッチャー・サマタは心を汚す

 

ミッチャー・サマタは、欲望を助長するだけでなく、欲望を残したまま、つまり心が浄まらないままトランス状態に入ります。
つまり、煩悩が強化されて変性意識になるわけけです。
煩悩があるとは、心が汚れている状態です。
ですので、仏教ではこの手の瞑想を禁じるのでしょう。

 

仏教は、どこまでも煩悩を無くす方向に進みます。
心を浄めるのが仏教です。

 

ですので、薬物は問題外ですが、ダンスや音楽、低俗なビジョンといった方法で瞑想状態に入るを禁止するわけです。

 

ダンスや音楽が何故悪いかといえば、心が充分に清まらずに誘導されていくからです。
一種の誘導催眠です。
瞑想は、自力で心を浄化させながら深めていきます。
といいますが、五蓋という煩悩が弱くならないと瞑想は深まりません。
瞑想では、心を浄めることを、自力で行います。

 

しかしダンスや音楽は、自力で心を浄めることが疎かになりがちです。
まず五蓋(ごがい)という煩悩を鎮めることはできません。
しかしこの手の方法は、五蓋を残したまま、比較的簡単にトランス状態に入ります。
手軽にトランス体験できるのですが、欲望や煩悩を残したままの不浄な状態です。
ですのでこの手のミッチャー・サマタを行うと、幻視や幻覚を見るようになります。

 

たとえば、あの世とか異世界を見ます。
薬物を使った場合は、煩悩が強烈ですので、サイケデリックな幻視や幻覚も見ます。
変性意識状態ですので、見る物・聞く物は全てリアルです。
あたかも実在する世界のようです。
幻視・幻覚であっても、リアルであるため、実在する世界と勘違いします。

 

また統一感もあるため、一種の力を発揮することがあります。
透視、ヒーリングといった超能力らしい力を出すこともあります。

 

しかしこれらは坐禅の世界もいわれている「魔境」に他なりません。
瞑想でも、欲を持ったまま統一状態に近くなると、リアルな映像を見ます。
ミッチャーサマタ(邪定)では、こういったビジョン(幻視)を頻繁に見るようになります。

 

日本でも昔、滝に打たれて通力を獲得しようとした行者もいましたが、これも同じです。
欲望を根底に秘めて変性意識へ移行すれば、不可思議な光景を見たりします。
しかも禅定に近い状態にもなるため、奇瑞を起こすときもあります。
欲望や夢、そういったものをまとっているものはミッチャー・サマタであることが多いかもしれません。

 

 

サマタ状態になると奇瑞を起こすことがある

 

正しいサマタであろうと、ミッチャー・サマタであろうと、統一感が形成されると、そこにはある種の「力」を伴うことがあります。
ですのでミッチャーサマタでもヒーリングや透視といった通力や超能力も出てきます。
正しいサマタでもミッチャー・サマタでも、現象としては、同じようなことが起きます。

 

よく新興宗教で願いがかなったとありますが、これは、願う者の心が引き起こしている現象です。

 

ここで整理すると

 

◎仏教が推奨するサマーディ ⇒ 空の通力(煩悩、執着から離れたところから生じる力)
◎ミッチャー・サマタ ⇒ 有の通路着(煩悩や汚れに基づくところから生じる力)

 

となります。

 

「現象」「力」だけを見れば、正しい方法もミッチャー・サマタも関係ありません。
不思議な能力、奇瑞、奇蹟を起こしたとしても、それが清らかな心から生じたものなのか、欲望に根ざした邪な心から引き起こされたものなのかは、分かりにくいところがあります。

 

お釈迦さまはパーリ長部経典の「堅固経(ケーヴァダッタ経)」では、「神通力は恥である」とおっしゃっています。実は、お釈迦さまは、途中から神通力を積極的に推奨することが無くなりました。しかも「恥」とまでおっしゃっています。

 

神通力が「恥」と言われる理由は、お釈迦さま在世当時にもガンダーリやマーニカといった奇瑞・奇蹟を起こす呪術があったからです。

 

これらの呪術は、煩悩に根ざしていたのでしょう。仏教の神通力は、煩悩の無い状態で生じる現象です。見た目は同じ現象に見えても(奇蹟や奇瑞を起こしても)、心の状態が全く異なるわけです。しかし、凡人には、この違いが分からいことも多くなります。ですので、人々を惑わす恐れがあるとして、お釈迦さまは神通力や奇瑞を起こすことを推奨しなかったわけです。

 

三法に帰依をし、仏道修行を歩む者は、ミッチャー・サマタにかかわってはならないでしょう。
仏道は、瞑想をするしないに関わらず、「戒律」を守り、表面意識レベルからの浄化を実践していきます。
これは仏教が、心を浄化するアプローチを軸にしているからです。
仏教は戒律を基本としています。
言葉を変えれば、「心の浄化」がスタートです。
その上にサマタ瞑想などが成り立っています。
軸は「心の浄化」です。
ですので、心を不浄にする、不浄のまま瞑想を深めるミッチャーサマタを禁止するわけです。

 

仏道修行では、心を浄めないもの、不浄にするものはさまたげになります。
ですので仏教徒はミッチャー・サマタを行うことを禁止するわけですね。

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2012/09/02


無明(アヴィッジャー)と受(ヴェーダナー)の瞑想

仏陀の修行は大別するなら、

 

・無明(アヴィッジャー)系
・受(ヴェーダナー)系

 

の2つになるでしょう。

 

無明(アヴィッジャー)系とは、文字通り、無明を滅するアプローチを取る方法です。
代表的なのが、このブログでも紹介しているパオ瞑想でしょう。

 

一方、受(ヴェーダナー)系は、十二因縁でも馴染みのある受(ヴェーダナー)から生じる煩悩を拡大させないアプローチです。代表的なのが四念処のように四六時中、自己観察をする方法です。

 

しかし四念処が受(ヴェーダナー)系の瞑想としたら、それは少々違うでしょう。
パオの瞑想にも四念処があります。
ヴィパッサナの課程に入ると、四六時中、無常・苦・無我を観察する修行が入ってきます。

 

ですので、無明(アヴィッジャー)と受(ヴェーダナー)の違いは、瞑想と観察の深さにおいて違いがあるということになります。

 

しかし無明(アヴィッジャー)と受(ヴェーダナー)もどちらのアプローチでも悟りに至ることができるということですね。

 

要するに「煩悩を生じない」ということが達成できれば良いわけです。

 

煩悩そのものを断滅する無明(アヴィッジャー)系でも良いですし、
煩悩を拡大させない受(ヴェーダナー)系のどちらでも良いということになります。

 

どちらの方法が優れているというのはナンセンスになるでしょう。
どちらも仏陀の瞑想法であり修行法です。

 

パオの瞑想では、最初に戒律をしっかりと行い、そうしてサマーディを深め、物質をカラーパレベルで観察をし、そうして精緻なその世界でヴィパッサナを行い無明を滅ぼします。

 

ダンマパダ(第十一章老いること・154)にある通り、

 

家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を造ることはないであろう。汝の梁(煩悩)はすべて折れ、家の屋根(無明)は壊れてしまった。こころは形成作用(行)を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。

 

まさにこの境地を目指すものでしょう。

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2012/09/04