仏教は平等?

仏教入門のようなことを書いていますが、今回は仏教の平等観などについて書いてみたいと思います。

お釈迦さまがいらっしゃった当時もカースト制度という身分制度ががっちりと築かれていました。
カースト制度とは、
・バラモン(司祭)・・・神官、宗教者
・クシャトリア(王族)・・・王や貴族、武士
・ヴァイシャ(商人)・・・商工業
・シュードラ(奴隷)
という4階級からなる身分制度ですね。

カースト制では、身分が違う者同士が話しをしたり、まして恋愛など御法度です。現代でもカースト制度は根強く、払拭するのは困難とも言われています。スズキ自動車のインド工場では、日本式の全社一丸式の生産体制により、身分制度が多少緩んでいるともいいます。ですがインドでは今もなお根深い身分制度があります。

この根深い身分制度は、お釈迦さまが在世の頃も同じです。
お釈迦さまはクシャトリアという王族の出身でした。王族のお釈迦さまが、シュードラの奴隷の方に、声をかけるのですが、当時は身分が違うだけで、話しをすることすら御法度だったようです。
ですので、お釈迦さまに声をかけられたシュードラは「だんな、私に声をかけないでくださいませんか…」とまでいって拒んだようです。ですが、お釈迦さまは、その者が悟りに至る資質があることを見抜き、出家をすすめます。

当時、お釈迦さまに声をかけていただくだけでも大変なことだったようです。それでありながら「拒む」というのは、いかに身便制度の壁が強かったかを想像させます。現代では想像できない位、当時のインド人の心に、身分制度の影響があったことがうかがえます。

お釈迦さまは、心ある入門者に対しては誰であろうと「エーヒ、ビック(よく来たね、修行者よ)」と親しげに声をかけ、入門者を歓迎したといいます。

当時は、厳格なカースト制でしたので、身分の違う者同士が親しげに話しをすること自体あり得ませんでした。当時はこういったことは「絶対にあり得ない」ことであり、驚天動地の出来事だったようです。仏教が平等主義であることは、おそらくこういった身分制度の慣習にとらわれなかった姿勢から出ていると思います。

現代でいえば、さしずめ、経歴や学歴、社会的地位、職業、資産の多寡、能力などは一切関係ないといったことになるでしょう。

ですが、仏教は誰でも何でも受け入れて、平等というわけではありませんでした。このことはあまり知られていないと思いますが、受け入れることのできない人達もいました。

それは、あまりにも心が汚れ過ぎている人達でした。漁師などの殺生を好んで行う人も入門は認められなかったようです。
汚れ過ぎて浄めることができそうもない人、心を浄める志の無い人には大変厳しいところがありました。

たとえばある日、大勢の出家希望者がいたようですが、その人達が大声で騒いでいたといいます。その言動を見たお釈迦さまは「何事ですか、その大騒ぎな様子は。私はあなたたちのよう人は入門させません。速やかに帰ってください」と言って追い返してしまいました。

もっともこの話しは続きがあるのですが、いったん追い返されたこの人達も戒律をしっかりと守ることを約束して入門が許されたそうです。

他にも、心が汚れ過ぎている者を「愚か者」と称して、こういった者とは親しくしてはならないことや、不真面目な修行者を汚道沙門(おどうしゃもん)と言って、こういった者とは軽率に親しんでならないとまでおっしゃっています。

仏教は心浄める向上心のある者にとってはオープンなのですが、そうではない者に対しては非常に厳しく、時に排除する側面があります。

仏教というものの特徴、お釈迦さまのお考えというのがわかるエピソードであろうと思います。
仏教を実践する者にとって身の引き締まる思いになる話しであったりしますが、上記のことは仏道を実践する世界において該当することになります。

お釈迦さまは基本的にはやさしく、愛にあふれ、人々の幸せを願う方でいらっしゃいました。ですが、修行ということになると、真面目に行っている者達が堕落しないように、細かい配慮をされていたのだと思います。修行の妨げになる者を入門させなかったのは、真面目に取り組むことへの妨げにならないための措置だったのでしょう。

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