慚愧(恥を知る心・悪を怖れる心)は仏教での基本となる心構え

慚愧(恥を知る心・悪を怖れる心)は仏教での基本となる心構え

仏道修行を進める上で大切なことは「慚愧(ざんき)」の心といわれています。

慚愧(ざんき)。
パーリ語では
・慚:ヒリ(hiri)
・愧:オタパ(ottappa)
といいます。

ミャンマーのように、
原始仏教を実践しているこことでは、
慚愧(ヒリ・オタパ)を重視します。

慚愧は、
・慚・・・恥を知る心
・愧・・・悪を怖れる心
です。

修行において、慚(ヒリ)愧(オタパ)は
とても大切にされます。

なぜなら、慚愧が無いと、
いとも簡単に悪を行ってしまうからです。
自分が悪を行っている自覚すら無くなるからです。

これは怖い。
無自覚のうちに、どんどん悪を行ってしまいます。

原始仏典では
「出家比丘は、些細な悪にもおそれるべし」
といったことすら書いてあります。

慚愧は出家のみならず、
在家にとっても大切な視点であり、
ポイントであろうと思います。

慚愧が欠けると瞑想が進まなくなる

慚(ヒリ)愧(オタパ)が欠けていると、
瞑想が進まなくなるといわれています。

瞑想は、心を浄めていく行為です。
技術的なことよりも、
実は、心の清らかさが大切になっていきます。

ところが悪を行うと心が濁ってしまいます。
普段の生活の中で、心を濁らせていることが
結構あるいのですが、慚愧が弱いと、
こうしたことが分かりにくくなっていきます。

瞑想は、極端なことをいえば
心が清まれば、自然と進んでいきます。

静寂の中の明るさが適切な瞑想の状態

瞑想といえば、
たとえば「静寂の中に明るさ」があります。

これは「静まりかえった月夜の晩に、
「ほっこりとしてくつろぐ」
といった感じです。

とても落ち着いていて、
心が温かく、ほっこりとした感じ。
「ほっ」とした感じ。

普通、「静寂」といえば、「闇」「暗い」「夜」
といったイメージも抱かれがちです。

ですが、坐禅、瞑想をしていきますと、
この静寂の中に落ち着いた
「ひだまり」を見出します。

五感を刺激する喜びや楽しさとは、
また違う「快適さ」であったりします。
とても落ち着いていて、静かなのですが、
ほっこりとし、優しく温かい。

幼少期の感覚に近いかもしれません。
赤ちゃんが、ただ微笑んでいる、そんな感じ。

ですので、慚愧が充分でないと、心が清まらない、
つまり瞑想が進んでいかなくなるといいます。

慚愧ができると気づきが深まる

「気付きの瞑想」は、文字通り、
今起きていることに心をとどめていきます。
これを続けていきますと、自分の心の動きへの
感受性も高まってまいります。

ですから、気付きの瞑想といいますか、
瞑想修行がどれくらいできているかは、
その人の言動なり、人格なりを見れば
分かるのではないかと思っています。

それに、気付きが深まると、
自分自身へのチェックも
より繊細で深くもなっていくと思います。

慚愧は、仏教での基本となる心構えであり、
基本中の基本ということになります。

2013/03/25 12:15:50