四双八輩

四双八輩・四向四果

「四双八輩」(しそうはちはい)とは、仏道修行における悟りの階梯をいいます。四向四果(しこうしか)もいいます。四双八輩には四段階あります。それは、

  • 預流果・・・有身見、疑惑、戒禁取という認識の煩悩(三結)が根絶
  • 一来果・・・貪、瞋の煩悩(三毒)が弱まる
  • 不還果・・・貪、瞋の煩悩(五下分結)が根絶
  • 阿羅漢果・・・色貪、無色貪、慢、掉挙、無明の煩悩(五上分結)が根絶
ですね。
四双八輩とは聖者の階梯でもあって、煩悩が根絶されていく有り様ともいえます。

で、それぞれの前にプロセスとしての段階があります。それが、

  • 預流果の前に預流道
  • 一来果の前に一来道
  • 不還果の前に不還道
  • 阿羅漢果の前に阿羅漢道

このようにプロセスを入れると8段階になります。それで四双八輩(しそうはちはい)といっています。

四双八輩は輪廻しながら解脱する

四双八輩は、輪廻をしながら最終的には涅槃に到達します。具体的にいいますと、

  • 預流果・・・人間と天界を7往復している間に涅槃に入る(ブッダになる)
  • 一来果・・・人間と天界を1往復して涅槃に入る(ブッダになる)
  • 不還果・・・浄居天という色界の天界に転生して神となり、そこでの寿命が終えた後に涅槃に入る
  • 阿羅漢果(ブッダ)・・・輪廻が止む(終わる9
このようになります。このように悟りが深まり、最終的には阿羅漢としてのブッダになります。

「預流果(よるか)」のほかに「一来果(いちらいか)」「不還果(ふげんか)」と呼ばれる方もいらっしゃいます。一来果とは、死後、天界へ一回行って、もう一回人間に転生してきて、人間のときに涅槃に入って「輪廻よサラバ」とされる方ですね。

不還果は死後、色界という天界の最高位である「浄居天」に生まれ変わって、そこでの生命が終わった後、自動的に涅槃に至る方です。もう二度と転生しないので「もどらない」という意味の「不還」なわけです。

仏教を修行して悟りを得た「預流果(よるか)」「一来果(いちらいか)」の方は、涅槃に入るまで必ず天界と人間界を行き来するようです。

預流果では自己の認識に関する煩悩「三結」が根絶

ちなみに預流果では認識の煩悩である三結(有身見、疑惑、戒禁取)が遮断されます。大事なことは認識機能である三結(有身見、疑惑、戒禁取)が煩悩とされていることですね。

三結は自己の認識に関する作用ですが、煩悩とされています。ここに仏教の特徴があります。

ちなみに三結は

  • 有身見・・・自分があると認識する心
  • 疑惑・・・真理に対して疑う心(真理がわからない有り様)
  • 戒禁取・・・観念や概念など心が作った諸々に真実があると認識する心
をいいます。
自分というのが存在しているという心は錯覚なのですが、預流果になりますと、この錯覚が真っ先に無くなるといいます。

まずは四双八輩の預流果になることがおすすめ

天界では善行を積みにくいことはこの前も書きました。

天界から人間に生まれ変わってくる天人の中には、善業パワーをチャージするために、あえて人間に転生する神々や、仏道修行をして預流果(よるか)になって永遠の切符を手にする方々もいらっしゃいます。

預流果(よるか)の場合は、仏道修行をして天界へ行き、しばらく天界にいて、再び人間界に戻って仏道修行を行う方ですね。人間界と天界を行き来します。預流果は最終的に涅槃に至る特別な存在だったりします。

預流果は、神々が意を決して人間に転生して善業エネルギーをチャージしようとすることと似ていますが、本質的に異なります。

預流果は最終的には、輪廻のサイクルから脱出してしまいます。「サヨナラ輪廻~」をしてしまうわけです。

しかも「不退転」という絶対に道を外れることなく、必ず涅槃に入るという特進コースを歩む別格の生命でもありす。

預流果以外の神々の場合、人間になって善業エネルギーを充てんをしようとしても、リスキーな側面もあります。

人間は、出来心で何をしでかすかわかりません。気がついたら、ヨっぱらって裸になって公園で逮捕されることもあるくらいです。

その点、預流果になりますと絶対安心。将来設計もバッチリの「これなら安心」プランです。

ブッダになれるのは人間だけ

またブッダ(阿羅漢)になれるのは人間だけです。人間以外の生命にブッダはいません。

もっとも神々のうち浄居天の神だけは死後、涅槃に至ります。阿羅漢になります。けれども浄居天の神以外は涅槃に入ることができません。

実に、人間だけがブッダに至れる生命であったりします。

この際だった特質が、後世の大乗仏教でもよく言われる「仏性(ぶっしょう)」の本来の意味なんですね。

この話しは次回に続きとしましょう。