蛇縄麻の喩え(だじょうまのたとえ)
「蛇縄麻の喩え(だじょうまのたとえ)」というのがあります。夜道を歩いていたところ、目の前にヘビがいて驚いたものの、よく見ると麻のロープだったと。人は事実に対して、記憶や思い込みから錯覚し、時に妄想してしまうことのたとえです。
「蛇縄麻の喩え」は日本で作られた概念です。 鎌倉時代の僧良遍が著した「法相二巻鈔」に登場しています。日本初の唯識仏教の解説書ですね。
「蛇縄麻の喩え」とは、まさに人間の認識が犯す「認知の歪み」を端的に示した言葉です。
スピリチュアルでは蛇縄麻の喩えは教訓
ところで、スピリチュアルでは「蛇縄麻の喩え」が戒めだと思っています。人は認知のフィルターがかかっていて誤認するということを知りませんと、妄想、自己顕示欲の手段としての醜いスピリチュアルになってしまうことがあるからです。
スピリチュアルには、天使からメッセージを受けるとかいろんなのがあります。半ばエンタメにもなっています。
でも妄想や思い込み、無自覚の期待感から誤認しているケースも多いですね。なので安易な見解や結論は御法度です。よくよく吟味をする知的な検証は欠かせません。
わからないことは棚上げにすることも大切
ヒーリングをすると様々な現象が起きます。それは事実です。が、どうして起きているのかは、まだよくわからないんですね。
なので、わからないことはいったん棚上げをして、ある程度の長期にわたって観察し続けていく必要があると思っています。
スピリチュアル的なことや不思議な現象に対しては慎重になります。「蛇縄麻(だじょうま)の喩え」の通りです。人は認知のフィルターがかかっていますので誤認することがあります。なので慎重にならざるを得ません。
しかし、ナマの事実を事実として受け止めることができれば、ロープをヘビと思い違えることはなくなります。で、これは悟りの文脈に連なります。
第三者も確かめられる証拠は望ましい
最近ずっとヒーリングのことを書いていますが、受けている本人もさることながら第三者も確かめることができる現象も起きています。
それでようやくエネルギー(気)のことをオープンにしているという塩梅です。オープンにするまでに10年かかっています。
やっぱり裏付け・確証がありませんと、妄想の類と思われてしまいます。
自己申告だけでは第三者は確かめようがありません。ある程度の客観的な証拠がありませんと、公にしにくいと思います。少なくとも私はそうです。知性が耐えられません。
神秘と科学はセット
第三者も確認できてこそ信用に値するかなあと思います。で、これこそが科学的ではないかと。で、神秘を認めることと科学的な姿勢はセットだと思っています。
「ロープをヘビと思い込む」を避けるためにも、いわゆる「スピリチュアル」にならないためにも、大事かなあと思います。
とはいっても、某テレビタックルのように極端に懐疑的になって神秘やスピリチュアルを頭ごなしに否定したり、疑い続けることは、これまたおかしいですね。ナンセンスです。
これはこれで「スピリチュアル信じない教」です。ええ「信じない宗教」になっています。知性がフリーズしています。「なんちゃってスピリチュアル」の逆バージョンです。
本物のスピリチュアルは事実に徹すること
本物のスピリチュアルとなるためには、いかにして事実に徹することができるかどうか。思い込み、期待感、自己顕示欲が絡んで妄想にならないこと。で、真のスピリチュアルは「あるがまま」です。
で、事実をそのまんまに受け止めることを「あるがまま(如実知見)」といいます。結局、悟りに通じます。真のスピリチュアルは悟りの文脈に一致します。
蛇縄麻の喩え。事実はロープだった。事実にあることが大事ですね。