人生観を変える仏教の善悪論

4回にわたって善行為について熱く語ってきましたが^^;、仏教の善行為の判断基準は大変重要だと考えるからですね。

一般的には、ボランティアとか、社会貢献が善行為と思われていますが(確かにそうではありますが)、決してそれが優れた善行為とは限らないということなんですね。

考えてみれば分かると思います。大規模にできる人がより大きな善業を積めるとなれば、遠慮しがちな方とか、物静かな方は善ができにくいとなってしまいます。

見た目のすごさや量などを基準にするなら、より多くの量をやって人が優れているという理屈になってきます。偽善もまかり通り、偽善が「善」のカテゴリーに入れられてしまうことも出てきます。やはりこれはおかしいものです。量を基準する考え方は、総じておかしな所がでてくるものですね。

パーリ仏典にも出てきます。ある大富豪が、毎月、盛大な供養祭を行っていました。しかし、僧侶達は「そんなに豪勢なことはしないで、適度にしなさい」と苦言を呈します。しかしその大富豪は忠告を聞き入れず、派手で盛大な供養祭を続けたようですが、やがて財を使い果たし、しかもそれほどの功徳(くどく:結果)も得られなかったといいます。

あるいは、悪心を起こしながら、見た目は善行をしていても、餓鬼道に墜ちた話しもあります。

一方、阿羅漢にサジ一杯のおかゆを心を込めて供養した人が、7回の生まれ変わりのすべてが大幸運となったことが経典には記されています。

量ではなく質が大切なことは明らかです。

仏教では「量ではなく、質(心の有様や動機)が大事」と鋭く指摘します。規模や量、外見ではない。心を浄めた行為であるなら、言葉が少なかろうが、なんであろうが、尊い善行為へとなっていくということです。

このことから、善行為は、何もボランティアとか社会貢献といった形を取らなくても、日々の生活の中でできることが分かります。家族の間で、職場で、学校で、いつでもどこでも、その気になれば、素晴らしい善行為をすることができます。

調子の良いことを言ったり、騒がしく、軽率な態度でボランティアをするよりも、落ち着いて朗らかな生活を過ごし家族を愛する普通の方のほうが優れた善行為をしています。

仏教の善悪の考え方は人生観を変えることでしょう。このことが腑に落ちると、人生観、価値観、そして世界観も一変するようになります。規模や量を追及することが無くなり、量はそこそこあればヨシとして、質を高める人生観になるでしょう。

そうして日々、何気なく行っていることが、素晴らしい行為になることに気付かされます。呼吸をする行為すら善行為になります。

そうです、瞑想が奨められるのも、それが善行為だからです。瞑想が素晴らしいのは、善行為ができる時間になるからなのですね。

もっとも、そうだからといって在家が、瞑想ばかりして働かなければ、生活上、問題も出てきます。バランス感覚が必要になるでしょう。これは言うまでもありません。

また質が大切だからといって、量はまったく関係無いということではありません。もちろん量も大切ですが、それよりも質のほうが大切ということです。

心を浄める行為が善行為である、というのが仏教の基本的な考え方ということですね。

仏教の善悪論に基づいて行動を取ることが多くなれば、量を追及する拡大路線という資本主義的な発想ではなくなるでしょう。

中身、質を大切にするなら、社会や家族、人間関係は、必要以上に無理をしたり、どこかにしわ寄せが来ることが少なくなり、より安定してバランスも取れてくると思います。

仏教が素晴らしいと思う要因の一つが、この善悪の考え方です。