非想非非想処と涅槃

非想非非想処とは?

心だけの「天界」。
それが「無色界」です。
なかなか理解が困難な世界でもあります。

無色界は四層から成り立っています。

  • 空無辺処(くうむへんしょ)・・・自分自身が空間大になる
  • 識無辺処(しきむへんしょ)・・・意識が空間大になる
  • 無所有処(むしょうしょ)・・・自分があるという意識がなくなる(ただある)
  • 非想非非想処(ひそう-ひひそう-しょ)・・・意識そのものがあるのかないのか微妙な状態

無色界は「空間そのものが自分」という状態です。また瞑想状態でもあります。

で、「空間が自分」という意識から、非想非非想処という、意識があるのかないのかわからないくらい意識が薄れる状態にまで深まります。

ちなみに色界は、微細な物質で構成された身体があります。色界梵天の身体は6㎞から木星くらいの大きさまですが、身体があります。

しかし無色界は身体がありません。強いていえば空間が身体ですね。

そんな無色界ですので、涅槃と錯覚したり、誤解してしまう恐れもあります。

非想非非想処は涅槃ではない

しかし非想非非想処は涅槃ではありません。その理由は後述しますが、非想非非想処は認識できる状態だからです。世界最高峰の生命の状態ですが、認識できる状態です。世界です。で、認識している以上、これは涅槃ではありません。

涅槃は認識を越えています。人間の認識が変容することから悟りが始まるくらいです。自他の区別が無くなる認識の変容が悟りといいます。

非想非非想処は有頂天

天界の最高位であり、生命の頂点が、非想非非想処ですね。非想非非想処は、全ての世界、宇宙の中でも頂上の世界です。なので非想非非想処を「有頂天(うちょうてん)」といいます。

「有頂天」という言葉は、実は非想非非想処から出ています。仏教用語なんですね。

非想非非想処は意識がゼロに近い状態

非想非非想処とは、限りなく意識がゼロに近い、消滅寸前のような状態といいます。かすかに想念が動いている状態ともいいます。

すごいですね。こういった心だけの世界で、なおかつ微細な心の動きしかしない世界や生命が存在するとは、驚くばかります。

ですが非想非非想処は「涅槃ではない」といいます。

非想非非想処に達すれば、ほとんどの人は「これは涅槃だ。悟りの境地だ。解脱した」と勘違いするでしょう。

涅槃は説明できない

そもそも実のところ、涅槃は想像ができないと言われています。説明は不可能。思考の領域を完全に超えているといいます。理解できない有り様といいます。

このことはブッダがおっしゃっています。涅槃は「存在するとも、存在しないとは言えない」といわれ、思考では大変理解しがたかったりします。

だからこそブッダは、菩提樹の下で解脱したときに、「この法を説くのや止めよう」と思ったわけですね。

しかし梵天の勧請を受けて、ダンマを説く決意をされます。有名な梵天勧請のエピソードにも、涅槃は理解し難いため、ブッダはダンマを説くのをためらったほどです。

それくら涅槃は理解できないことだといいますね。といいますか理解の範疇を超えた状態といいます。涅槃とは認識が変容した状態ともいえます。認識・認知が関与しない状態ともいえるかもしれませんね。

涅槃は幻(まぼろし)とか観念ではなく、言語や概念では説明できない有り様なのでしょう。涅槃とは、人間の思惟では推し量れない状態のようです。

また涅槃界とか仏界という世界は無いといいます。

そのため経典では涅槃は「無記(むき)」とされています。人間の思惟では理解のできない有り様であるとブッダは語っています。

仏教の修行によって涅槃に到達できるのですが、その涅槃については言葉や概念では説明ができないということのようです。

非想非非想処は説明できる

非想非非想処は世界の頂点です。この状態は言葉や概念で説明することができます。また言葉や観念で理解することができます。

ですので非想非非想処は涅槃ではないのですね。

しかしきちんとした知識がありませんと、非想非非想処を涅槃と勘違いすることはあり得ます。また本人もさることながら周囲も、涅槃と勘違いすることは往々にしてでてきます。

◎認識できる=非想非非想処
◎認識を超越している=涅槃

ということですね。

非想非非想処に満足しなかったお釈迦さま

ちなみにお釈迦さまは当時、非想非非想処の瞑想をわずか数週間という短期間でマスターしたことが記録に残っています。

お釈迦さまは出家をして、当時、最高の瞑想(今でも素晴らしい瞑想でしょう)とされていた非想非非想処を学びにアーラーラ・カーラーマ仙人の元に入門されています。いわゆる弟子入りです。

アーラーラ・カーラーマ仙人の元に弟子入りしたものの、数週間で最高峰の非想非非想処に到達。仙人から「ワシと一緒に弟子の育成をしよう。君はワシの片腕になってくれ」と頼まれたといいます。

けれどもお釈迦さまは、それを断ります。

なぜなら非想非非想処の瞑想状態にあるときは、煩悩がほとんど動かなくなっていても、いったん瞑想から出れば再び煩悩が動き出すからです。で、お釈迦さまは非想非非想処では不十分(解脱ではない)と判断したといいます。

そうして、アーラーラ・カーラーマ仙人の元を去って、一人修行を始めたといいます。

コンダンニャも非想非非想処を習得していた天才だった

ちなみにブッダの説法を聞いて初めて悟ったコンダンニャは、実は、世界最高峰といわれたこの非想非非想処の無色界禅定を習得していました。

ブッダがアーラーラ・カーラーマ仙人の元を去ってから数週間後に、コンダンニャもまた非想非非想処を成就しています。コンダンニャもまた天才肌の方だったりします。
コンダンニャ

話しがお釈迦さまの修行時代に及びましたが、非想非非想処は最高峰の瞑想(禅定)であり世界です。が、この瞑想状態であっても涅槃ではない、解脱ではないということですね。

涅槃と滅尽定

ところで仏教では、非想非非想処の瞑想の上にさらに深い瞑想を発見しています。

それが涅槃の「滅尽定」です。

滅尽定に入ると、身体の素粒子レベルから一切の活動が停止してしまうといいます。滅尽定に入るとダイヤモンドよりも固くなりカチカチになるといいます。

経典だったか経典の注記に、滅尽定に入ったお弟子さんのエピソードがあります。

それは滅尽定に入ったところ、通りすがりの農夫がその姿を見つけて「こんなところに立派な石がある」と思い、丁度、薪を燃やすにピッタリだということで、あろうことか滅尽定に入っているお弟子さんの頭の上に薪を付けて火を燃やしたといいます。

数日後、農夫が戻ったところ、その石が動き出して、腰を抜かしたという話しが残っています。

滅尽定に入ると、一切が停止してしまうため、滅尽定にに入る前に「1週間後に禅定から出る」とセットしておかないといけないといいます。これは涅槃から戻ってこれなくなるか、停止した身体がダメージを受けるからでしょうか。

滅尽定も凡人には理解の及ばない状態です。

涅槃は非想非非想処よりもわかりにくい

涅槃は、説明ができない状態であって、宇宙の始まりと同じくらい理解できない有り様だといいます。

まったくもって仏教は、訳の分からないものをゴールに設定しているかのようです。

が、ゴールが想定できなくても、しかるべきプロセスを経ていけば涅槃に到達できる方法をお釈迦さまは残されています。この微妙なニュアンス、お分かりでしょうか。

ちなみに仏教が現在系の実践というのも、ゴール自体が説明できないことと関係しているとも思います。

無色界の非想非非想処すら理解し難い世界であり状態です。この宇宙は、地獄から非想非非想処までの広大な世界から構成されているということですね。しかし涅槃はどこにあるのか?どういう世界なのか?は凡人には理解できないということなのでしょう。

いえいえ、そもそも涅槃は世界ではないといいます。涅槃は、ナントカ世界ではなく、有り様だといいます。だから涅槃がどこにあるのか?どういう世界なのか?という問いそのものが成立しないということですね。