仏教

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仏教の教えのブログスタート

仏教のブログを作ってみました。
趣味で長年、仏教に親しんできましたが、探求心が旺盛ですので、あれやこれやと調べたり、実践を続けてきました。
そういう今までの勉強やら経験を踏まえて、仏教関係のブログを作ってみようと思いました。

 

仏教といいましても大変広い世界です。
仏教のことを知らない方は、おそらく、ご存じではないと思いますが、2600年近い長い歴史があり、その歴史の中で変遷してきました。

 

一番最初にお釈迦さまが説いた仏教は「原始仏教」という位置付けになっています。つまり、正真正銘の本当のオリジナルの仏教が原始仏教ということですね。

 

原始仏教の後、部派仏教が出てきて、初期大乗、中期大乗、後期大乗というように出てきて、インドでっはほぼ消滅してしまいました。

 

しかしアジアの各国に伝播していき、日本では、中国を経由して奈良時代に仏教は伝わっています。日本の仏教は、中国仏教の影響下にあり、オリジナルの仏教とは言いがたい側面があります。

 

しかしオリジナルの仏教の精神は、しっかりと受け継がれていて、日本の文化の中にも深く定着しています。

 

このブログは、原始仏教を中心に書き連ねていこうと考えていますが、仏教に限らず、スピリチュアルなものから思想的なものまで、幅広く取り扱っていこうと考えています。

 

それと、このブログは、特定の宗教団体との関わりは一切なく、私個人による解釈や思想的なものとなります。

 

仏教といえば「宗教団体」と関連されて、誤解や偏見も少なくありませんが、本来の仏教は、宗教団体のように構えたり、教祖という絶対的な指導者は認めていませんでした。

 

非常に自由な空気があり(かといって本能のおもむくままの自由という意味ではありません)、束縛やこだわりの無い集いだったようです。

 

そういう本来の仏教の空気感をも紹介してまいりたいと思います。

 

ということですが、まあ、気楽にやっていきたいと思います。

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2012/05/03


誤った仏教が多い日本

仏教の概要は大体、ご説明したかと思います。
三学(八正道)、四聖諦、縁起、気付きの瞑想、この辺りを理解しておけば、仏教の基本は分かるかと思います。

 

ほかには「無常・苦・無我」などもありますが、まずは上記の概念を知り、なおかつ本質的なポイントを押さえておくのが実践的な仏教になるかと思います。

 

仏教は、自分と向き合い、自己を錬磨もしていきますので、こういったことへ抵抗感や嫌悪感を抱く方も実際にいます。窮屈で自虐的なことをしていると誤解もされがちです。ですので仏教、殊に原始仏教、瞑想となると、感性の鋭い方とか、向上心がある方とかが続けていかれるような印象があります。

 

各地でも瞑想会が開催されていますが、主催者の様子を見ていますと、品位を重んじて、静かで落ち着きのある空間を大切にされている感じです。やはり、こういう落ち着きさや品位というのは大切です。中には、純潔を守って、俗世間的なものは一切持ち込まない主義で行っているところもあります。こういうところは凛とした良い緊張感もあります。とても真面目にされていて、好感が持てるところが多い感じがしています。

 

ですが、こういう真面目な路線は、残念ながら一般から関心が持たれにくいものです。このことは今も昔も同じです。ですので世の中には仏教の装いをした、好奇を寄せやすいものが多く出回っています。

 

代表的なのが、戒名やお守り、護符、祈祷がそうですね。ですが、これらはしっかりと既に生活や文化に根ざしています。元々の仏教には無いものでしたが、今さら変えるのは無理ですし、文化や慣習として定着していますので、これはこれでそのままにしておいて良いのではないかと思います。

 

しかし昭和初期くらいから広まっている新しい仏教観があります。あまりこういうことを言い出すとちょっと何ですが、新興宗教や新宗教には、新しい仏教観を打ち出して、大衆の関心を引きつけているところもあります。信じる信じないは自由ですので、最終的には本人の意志次第ではあると思いますが、近年見聞する中でちょっとこれは、というのがいくつかあります。

 

たとえば、宿命や運命を転換するという教え、守護霊が得られるというもの、現世利益を約束する、人生での成功を教える、前世を見ることができる、超能力が得られる等々。こういったものは、仏教の主目的にはなりません。修行していく過程において、このようなことが起きたり、得られるケースもあるようです。しかし、絶対ではなく、仏教本来の目的でもなく、強いて言うなら二次的、三次的な副産物です。

 

副産物であるものを主目的としてしまうところに、危惧を抱きます。なぜなら、これらの副産物は、人間が最も好みやすく、強い欲望とも密着しやすいからです。しかもこれを隠しながら(気付かれにくくしながら)、美辞麗句を並べる場合も少なくないため、本質を見抜けないまま浸ってしまうことも多くなっています。下手をすると、かえって欲望を強めてしまうことにもなりかねません。

 

特に宿命を転換する、因縁を切るといったものは、本来の仏教にはありません。本来の仏教では、心が清まる中で、人間関係や環境が整い、その結果、状況が好転するということはあります。いわゆる明確な因果関係において「運命が好転する」ケースですね。

 

しかしこれは何も仏教に限ったことではなく、普通に心の持ち様を変えれば、人間関係は改善されていきますので当たり前のことです。ですが、表現を変えれば、心の持ちようを変えることで「運命が変わった」と言えます。

 

しかし、何か呪文を唱えて運命を転換するとか、祈祷や祈念によって転換する魔法のようなものは、仏教にはありません。もしあったとしても、それは仏教本来のものではないということになります。

 

また超能力(神通力)は、仏教では必須ではありません。ちなみにお釈迦さまは、神通力は「恥である」とまでおっしゃっています(パーリ長部経典「堅固経」)。当時、ガンダーリー、マーニカという魔術(今でいう手品や超魔術なども含む)があり、神通力が引き起こす現象も、これらの魔術と見た目は同じなので、よろしくないことをおっしゃっています。つまり、一般人を錯誤させて惑わすだけなので、お釈迦さまは神通力には否定的な見解を持っていたということです。

 

また教祖に依存したり、依存させることをしている所もありますが、本来での仏教では教祖への依存を戒めていました。お釈迦さまを絶対視したり、依存しようとする人々が当時からもいましたが、そういう行為を認めていませんでした。お釈迦さまは、教祖への依存を戒めていました。お釈迦さまの最期の言葉に「自灯明・法灯明」とあります。「自らを拠り所として、ダンマを拠り所とせよ」という教えです。ですので、本来の仏教では、教祖や誰かに依存してしまうことは、正しいあり方ではないということです。

 

このように説明しますと、驚かれる方もいらっしゃいます。しかし、事実はこの通りとなります。様々な思想や宗教もあり、信じる信じない、興味がある興味が無いは、各人の好みでもあると思いますが、少なくとも原始仏教は自己と向き合い、心を浄めていくことが軸となる実践ということになります。

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2012/05/18


仏教は哲学にあらず〜全て確認されたもの

業について連続して書いていますが、記事は既に下書きしてあります。毎日投稿する記事は、今のところ18日分はあります。思いついたときに一気に書き留めています。ですが一度に投稿しますと、読者も大変かと思いますので、これでも小出しにして投稿しています。

 

ここ数日の輪廻や業に関する仏教的な見解は、ショックに感じる方もいらっしゃるかもしれません。最近は精神世界の著作物も多いですので、様々な情報を得ている方もいらっしゃると思います。ですが仏教的な業の解釈は、おそらく初めて見聞される方が多いと思います。

 

もちろん仏教的な業を、信じる・信じないはご自由ですね。ただし、人の輪廻転生を無限に近いパターンを読み切ったお釈迦さまと、同じように読み切ったお弟子さんらによって検証され確認された内容ということになります。

 

仏教を「哲学」ととらえる向きもあります。特に学究的に研究する学者や専門家に多い傾向です。しかし仏教は、知的作業によって概念化された哲学ではありません。全て「体験に基づいた」ものです。体験に基づいて確認し、検証したことを文字や概念で著しています。これが仏教です。また哲学と根本的に異なる点です。知的に何かを概念化して思想にした教えでは無いとうことです。

 

ですので仏教には「〜と思う」とか「〜と考える」「〜と結論付けられる」という「推測」の表現や「論理」「理屈」による見解はありません。全て「断定」です。結論が先にあって、それを言語化している形です。また「私は見た」という確信です。全て観て確かめられた内容のようです。

 

輪廻にしても業にしても、瞑想による心眼で全て確認されています。仏教とは、そういう世界になります。

 

そしてさらに大事なことは、お釈迦さまのお弟子さんらの多くも、同じように追体験し、確かめているということですね。そうして導かれ、整理されたのが「お経」という伝書になるわけです。

 

このお経ですら「鵜呑みにしてはならない(自分で確認してください)」とまでおっしゃっていますので、仏教の「体験主義」は徹底しています。

 

もっともお経の中には誤謬(ごびゅう)も含まれています。明らかに意図的に書き加えられたであろうと思われる箇所もあるのは事実です。

 

ですが、基本的に経典に書いていることは、お釈迦さまとお弟子さんらの体験に基づく内容と受け止める方が正しいような気がします。

 

話しが脱線しましたが、今まで記事を投稿してきて、このブログを読まれている方の中に、それまでの常識や概念をひっくり返されたような感じを受け、戸惑いを覚えているかもしれず、老婆心ながらこの文章をしたためてみました。

 

信じる・信じないは自由です。私も体験して検証したわけではありません。原始仏教では、このように言われている、という世界をご紹介し、あわせて私個人の見解も書いています。

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2012/06/11


仏教を言語で説明する

仏教を言葉で説明することは大切です。
しかし、限界もあります。
特に涅槃、悟りといったものは、体得していないと、本当は説明もできないでしょう。

 

ですが、言語化して説明できる部分はあります。
しかもそれはわりと多くあります。

 

仏教を説明するとき、言語化できる部分を言葉で説明するのがいいと思います。涅槃などは言語で説明はできませんし、その他、理解しがたい概念は、言語化することは限界がありますので、こういったものは言葉での説明は難しくなります。

 

悟った方ですら、涅槃の説明はできない(避ける)わけですから、実質、不可能でしょう。

 

しかし、ナーガーセーナ尊者という方は、涅槃をとことん言葉で説明されました。それが「ミリンダ王の問い」というパーリ経典に含まれるお経に残されています。

 

言葉で説明されたものは、その言葉を足がかりにして推測するしかありませんね。仏教で使われる概念も実は、こういうのが多くあります。無常、苦、無我もそうですね。

 

体験しないと、その本当の中身は分かりませんが、しかし、経典の中に数多く残され言葉から類推していくことは可能でしょう。推理と分析をふるに働かせて、その本質にある程度迫ることは可能だと思います。ただ、推理したものが「絶対に正しい」と決めつけることは、よくないですね。

 

一方、四聖諦、八正道など、ある程度、推理等を働かせてアウトラインが分かるものは結構あります。

 

仏教を知るためには、経典学習は必要であると思います。できれば、精密に、しかも徹底的に調べ尽くして、可能な限りの学習をしたほうがいいと思います。

 

ですが、一方で、至心に瞑想を行い、実践を通して答えを得ようとする方法もあります。

 

後者の方法も良いと思いますし、できれば両方行ったほうがいいと思います。

 

仏教は言語化することに限界はあります。しかし言葉でしか説明できませんので、可能な限り言語化していくことは良いことだと思います。

 

ただし、言葉を使って真理に到達することは不可能でしょう。言葉は、実践の仕方や、実践の方向性を示す役目を果たすものに過ぎないからです。

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2012/07/21


仏教はお釈迦さまが説いたものとは限らない

仏教は、お釈迦さまが説いた教えとダンマですね。
ですが、お弟子さんらも同じようにブッダになっています。

 

一番最初にお釈迦さまがブッダになられて、その次に、アンニャー・コンダンニャが悟ってブッダとなり、この輪が広がっていきます。ブッダとなった方を阿羅漢(あらかん)ともいいますね。

 

意外と知られていないことですが、当時、仏教と二分する宗教にジャイナ教がありましたが、ジャイナ教では、仏教を説く者をお釈迦さまとはしていなかったという歴史的事実です。

 

ジャイナ教では、「仏教を説く者」を、なんとお弟子さんの「サーリプッタ」と認識していました。
驚きませんか?

 

一般的に仏教は「ゴータマシッダルータ」が開祖とされていますが、当時は、そうとは限らず、弟子達が開祖といいますか、代表者として認識されていた形跡もあるのです。

 

当時、仏教は、お釈迦さまが説く教えというだけでなく、そのお弟子さんらが説いていた教えとして、各地で認識されていた可能性があります。

 

サーリプッタが「仏教を説く者」と認識されていたことは、ジャイナ教の聖典にたまたま記述が残っていたから分かっていることです。

 

ブッダの教えとはお釈迦さまに限定されず、ブッダとなったお弟子さんらが説くこともまた「仏教」だったわけですね。

 

実際、お釈迦さまに会わずに、お弟子さんらの導きによって悟った方もいらっしゃったほどです。

 

またパーリ経典にも、お釈迦さまのお弟子さんが説いた内容もしっかりと残っています。特にサーリプッタという方は、大変、頭脳明晰で、仏教を緻密に分析し概念化することにも成功しています。またアビダルマ仏教の先駆けはサーリプッタでした。

 

弟子のほうが活躍といいますか、目立っている宗教は、世界中の宗教を見ても特異な点だと思います。宗教とは、大抵、教祖・提唱者がいて、その人の言行録となっています。

 

しかし仏教は、お釈迦さまを中心に、同じようにブッダとなったお弟子さんらの言行も含まれているということですね。全てブッダの教えとして掲載されています。

 

言い換えますと、仏教とは、大勢のブッダによって検証され確認された教えと実践方法ということができると思います。

 

仏教のこういった側面を見ていきますと、極めて客観性の高い宗教と言えるのではないかと思います。

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2012/07/23


仏教とスピリチュアルとの違い

今日は仏教とスピリチュアルの違いについてお話ししたいと思います。

 

仏教とスピリチュアル、これは明らかに違います。
ですが、「その違い」は何でしょうか?

 

仏教では、神通力とか、輪廻転生を言います。
スピリチュアルでも、ヒーリングや透視といった超能力、また前世・来世といった輪廻転生を扱います。

 

「仏教もスピリチュアルも同じでは?」とか
「表現が違うだけで、同じ事を言ってるでしょ」とか、
「西洋と東洋の見方の違いですね」とか。

 

こういったふうに思われる向きもあります。

 

しかし、仏教とスピリチュアルは違います。
何が違うのか。

 

これは明確に知っておくと何かと役に立つでしょう。
混乱も無くなります。

 

そこで今日は、仏教とスピリチュアルとの違いについてお話しいたします。

 

 

仏教とスピリチュアルは目標そのものが異なる

 

仏教とスピリチュアルとの決定的な違いは

 

◎仏教・・・執着(無明)を無くして涅槃に到達する実践行。言い換えれば「心を浄化」して悟る方法。

 

◎スピリチュアル・・・精神的、心霊的、霊的なものを扱うオカルティズム。

 

お分かりでしょうか。
最初のスタートラインが決定的に異なるのですね。

 

もっと簡潔にいえば

 

◎仏教・・・煩悩を無くす。オカルトを重視しない。
◎スピリチュアル・・・煩悩は無くさない。オカルトを重視する。

 

ということです。
真逆な関係ですね。水と油です。まったく親和性がありません。目指すものが根本的に異なります。

 

仏教は、道徳的な部分と重なります。といいますか、道徳と親和性があります。
五戒、八戒斎、十善戒といった戒律は、まさに道徳そのものです。
仏教は、まず道徳的な実践を行って言動を浄めます。
そしてこの上に瞑想法が成り立っています。

 

仏教は「品行方正な人物」を目指すことにもなります。
もちろん杓子定規的な品行方正ではなく、ナチュラルで自然体な道徳的な人間性を培っていく、それが仏教のスタートです。

 

この延長に、瞑想が成り立っていて、悟り・涅槃があるわけですね。
仏教のこの構造を「戒(かい)・定(じょう)・慧(え)」といいます。

 

「戒定慧」のことを「三学(さんがく)」ともいい「八正道」ともいいます。
仏教とは、まさに道徳から出発して、心を浄めていく実践行になります。

 

 

しかしスピリチュアルは違います。
スタートラインが「オカルト」です。
神秘主義や心霊主義です。
時に、妄想や幻視・幻覚的です。

 

精神的に豊かにするという側面もありますが、仏教のように「執着または無明を滅ぼして心を浄める」という明確な指針はありません。
オカルトの副次的なものとして、道徳性を言うケースもありますが、仏教のように「煩悩を無くす」というアプローチは取りません。

 

 

スピリチュアルは「仏教の副産物」をメインテーマとしている

 

スピリチュアルは心霊主義・神秘主義であるため、オカルトを全般に扱います。あの世を探索したり、超能力も目指します。さらには守護霊を扱ったりもします。

 

仏教ででは、こういったものを副産物(おまけ)としたり、あるいは否定もします。しかしスピリチュアルでは、仏教が重視しない要素をメインのテーマとします。

 

要素だけを見れば、仏教もスピリチュアルも似ていますが、扱い方、アプローチの仕方が全く異なるのですね。

 

仏教では、あの世は否定します。輪廻はありますが、霊界といった「あの世」は否定します。実際、霊界(あの世)はありません。天界や地獄、餓鬼、畜生といった世界はルアルに存在しますが、スピリチュアルで言うような「死後の世界」は仏教では否定します。

 

また、超能力や神通力に関しては、こちらでも書きましたが、メインには取り扱いません。なかにはまったく扱わない方もいる位です。

 

超能力や神通力を扱っても、それは副産物であって、別に大したものでは無いという立場です。

 

さらに守護霊といった存在は、ほとんど相手にしません。
大乗仏教の時代になると、護法善神として四天王をはじめとした仏教を護る神々として菩薩・明王も誕生しますが、原始仏教では、神々を信仰したり加護を強いて願うことはしません。

 

さらに仏教は、カーラーマ経にもある通り、原則的に自分で見て確かめられないものは扱わないという姿勢です。ですので、スピリチュアル的なものとは親和性がありません。むしろ仏教はスピリチュアルを否定します。

 

 

仏教とスピリチュアルは水と油の関係〜親和性が無い

 

したがって、仏教に、スピリチュアルを取り入れることはできないのですね。目指す方向も違いますし、実践内容からしても異なります。

 

ですのでスピリチュアルに仏教的なものを取り入れることもできません。方法論だけを取り入れて、見た目は似たようなことをすることはできますが、仏教の目指すものとは違ってきます。仏教は心霊主義でもなければ、オカルトでもないからです。

 

仏教とスピリチュアルは水と油の関係です。
異質なもの同士なのですね。

 

最近、スピリチュアルに仏教を取り入れようとする所もありますが、これは止めたほうがいいでしょう。
事情をよく知らない方にとっては、いたずらに混乱させるだけです。

 

事情を知らない人達にすれば「仏教もスピリチュアルも同じなのね」と勘違いさせることになるだけです。
これは罪作りなことです。
仏教に対する冒涜にもなりかねません。
また仏教を混乱させる新しい歴史をも作ってしまうことになります。

 

仏教とスピリチュアルとは異質なもので、違うものです。

 

仏教は、道徳や倫理と親和性がありますが、スピリチュアルとは親和性がありません。
異質なものです。

 

仏教とスピリチュアルとの違いと、よくよく知って、惑わされることがないようにしましょう。

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2012/09/12


仏教はインドで誕生したということ

仏教はインドで誕生した宗教です。
当たり前のことと思われていますね、実はこの当たり前のことが仏教を理解する上では非常に重要であったりします。どういうことが重要なのでしょうか?
今回は「仏教の勉強の仕方」について説明したいと思います。

 

 

対機説法・随機説法としての仏教

 

そもそもお釈迦さまは、相手に応じて説法をしています。
これは「対機説法(たいき-せっぽう)」または「随機説法(ずいき-せっぽう」と言われり説法の仕方です。「人を見て法(ダンマ)を説く」ともいいます。

 

相手の気根劣性を見極めながら、ダンマを説いた、それがお釈迦さまの説法の特徴でもあったわけです。

 

ですので、お釈迦さまは、何か永遠の真理、普遍的な真理を前提にお話しをされたというよりも、聞く相手に応じてお話しをされた、ということになります。

 

お釈迦さまは、相手に応じて説法をしていたということが大切ということです。
このことを知っておくことは、仏教を理解する上で大事な一点です。

 

そうして「人を見て法を説く」ことを続けていきますと、エッセンスが抽出されてきます。
それらをまとめたものがお経であり、論書と呼ばれる仏典です。
これが仏教を学習する上で知っておきたいことの第二番目のポイントです。

 

仏教を学習する際、一番目の「仏教は対機説法だった」ということはわりとよく理解されています。
しかし、次の「インドで仏教は誕生した」ということを、掘りさげて理解しておく必用があると考えています。

 

 

インドの風土を知らずして仏教は理解できない

 

「仏教はインドで誕生した」という歴史事実は、実は大変重要です。
見落とされがちなのですが「仏教を理解する上」で非常に重要です。

 

仏教を理解する上で、インドの風土、インド人を理解する必用もあります。

 

インドは亜熱帯の地域ですね。
インドは肥沃なガンジス川の恩恵が大きいと言われています。
中村元先生の研究によると、インドは農業に困ることが少なく、ガンジス河が栄養分を豊富に含んだ土砂を運ぶため、農作物の栽培に困らないといいます。

 

そのため、食べるものは、タネをまけば作物が取れやすいという好条件にあるといいます。
日本のように灌漑にも工夫を重ねて稲作農業を改良したり共同作業をする必用はなく、家族単位で農業を行うことは比較的簡単であったといいます。

 

食べるのに困らない生活環境、これがインド人の個人主義を生み出し、自己の内面を見つめる精神文化の成熟にもつながったといいます。
インドはよく知られているように、精神文明の深い所です。
仏教以前にも、ウパニシャッドもあり、魂に関する見解は、現代で説かれる以上の精密な理論もあるくらいです。精神性を精緻に追求する文化はインドの特徴でもあります。

 

こういう深い精神性の探究がインドにはあり、仏教もこの延長にあるということを忘れてはなりません。

 

 

インド人の精神性道徳観を知らずして仏教は理解できない

 

そうして次が実はもっとも大切なポイントであるとも思いますが、インド人の欠点をよくよく理解しておくということです。

 

インド人は、精神的には深く探求する反面、道徳を守らないという全く相反する性質も持っているようです。ただし、注意して欲しいのは、全てのインド人がそうだとうことではありません。モラルを守らない傾向があるということです。精神性を深く追及する反面、矛盾するようですが、モラルを守らない人達も多いと言うことです。

 

これは実際に現代でもインドへ行った人達が行っていることでもあります。
今も昔もそう変わらないでしょう。

 

インド人は、日本人とは違い、先述の通り、個人主義です。
同時に自己主張が大変強く、しかも論理や理屈に長けています。
日本人は、インド人と口げんかをしてはならないと言われているくらい、口達者で屁理屈も上手だといいます。

 

しかもインド人は日本人とは異なって、時間にはルーズで約束は守らず、また嘘を付くことも多いといいます。さらに不衛生でだらしなく、不潔なこともあまり気にしないといいます。その上、短気で怒りっぽく、激昂もしやすいといいます。
全般的に道徳心が低く、モラルを守らないところがあるといいます。

 

ですので日本人がインドへ行くと、面食らうケースが多くなるといいます。
中にはインドがツボにハマる人もいるようですが、日本人の多くはインドでストレスを感じます。

 

インド人は、数学に強く、論理性が優れ、精神的にもタフであり、しかも精神的な探求も素晴らしい特質があるのですが、これとは反対に道徳心が欠如した言動も多いという、相反するものが同居しているところがあるといいます。

 

これはまさに「清濁併せのむ」といった言い方もされますが、インド人は、物事への集中力が強いのだとも思います。集中力が強いメンタリティであるため、物事が極端にもなりやすいのでしょう。

 

そのため、この集中力が発揮されると、良い面で発揮されれば「深い探索」となり、悪い面に発揮されると「自分以外のことは見えない」といったKY(空気読めない)ことを生み出すのではないかと推察しています。

 

インド人の特徴
・集中力に優れる
・精神(心)を深く探求する
・数学や論理に強い

 

・個人主義
・自己主張が強い
・屁理屈に長ける
・ルーズ、なまけ癖、時間や約束を守らない
・短気で怒りっぽい
・平気で嘘を付く
・酒癖が悪く、大騒ぎをしやすい
・道徳心やモラルが低い

 

インド人の悪口みたいなことを書き並べてしまいましたが、何も悪口が目的なのではなく、こういうインド人社会の中で「仏教は誕生し、広まっていった」という「歴史的事実を踏まえなければ仏教を正しく理解できない」ということです。

 

※インド人の実像については著書「インド人には、ご用心!」が参考になります。

 

 

日本人が仏教を学ぶ時の注意点

 

ですから仏教を学習する際、

 

1.お釈迦さまは、相手に応じて法(ダンマ)を説いたということ(対機説法・随機説法)
2.お経は、こういうお釈迦さまの言行を整理したもの
3.インド人の精神性や道徳観を知っておくこと

 

この3つを踏まえておく必用があるということです。

 

特に三番目の「インド人の精神性や道徳観」を踏まえて仏教を理解することは重要です。しかし案外、押さえずに、経典に書いてあることをそのまま受け止めがちなところもあります。

 

つづく

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2012/10/04


日本人が仏教を学ぶ時の注意点

前回の『仏教はインドで誕生したということ』記事の中で、日本人が仏教を学ぶ時に

 

1.お釈迦さまは、相手に応じて法(ダンマ)を説いたということ(対機説法・随機説法)
2.お経は、こういうお釈迦さまの言行を整理したもの
3.インド人の精神性や道徳観を知っておくこと

 

という3つのポイントを踏まえて学習する必用があることを書きました。
今回はこの続きの話しになります。

 

 

戒律を理解する上で必用なこと

 

仏教では戒律を最初に説きます。
といいますか、戒律ができていないと仏道修行は進まないとさえ言われています。

 

しかし戒律を守る際、日本人の場合は、厳格になりすぎる傾向が出てきてしまいます。実際の見地からいえば、戒律は厳格・厳密にやってはなりません。こういう厳しすぎるやり方ではなく、もっと心身をゆるめてリラックスすることが大事になってきます。

 

インド人は、ルーズで、怠慢でだらしなく、時間も約束も守らない傾向があるといいます。こういう人達に向けて説かれたのが「五戒」でもあるということですね。ちょっと悪口に聞こえるかもしれませんが、こういうことを踏まえないと、仏教などの宗教は、正しく理解できないと思います。

 

仏教での「出家の戒律」は227あります。
しかしこれらの戒律は当時「随犯随制」といって、何か悪いことをしたら、その都度、戒律を作っていったものでした。

 

戒律を見ると、どうでも良いようなことが、細々と記載もされています。
しかも整理されて理屈っぽくも書かれています。

 

こういった戒律を受け止める際、まずこれは「インド人が編纂した」ということを押さえないとなりません。インド人は理屈っぽいわけです。物事を哲学的かつ精密に整理する特徴もあります。

 

ですので戒律もそのように編纂されていきます。
これを額面通りに受け止めると、窮屈になっていくわけですね。

 

ですから戒律は、その本質を押さえて理解することが大事になってきます。

 

 

五戒を肯定的・プラス的な解釈する

 

このことは在家の戒律である「五戒」でもそうです。
文言にとらわれたり、教条主義的になってはなりません。
また道徳心が欠如しがちなインド人社会の中で誕生したということを忘れてはならないと思います。まして「在家」です。

 

五戒は「○○してはなりません」といった禁止の表記がされています。
これは、インド人には、これくらい手厳しく抑え込むように言わないと、なかなか守らないということもあったのではないかと思います。
放っておけば、トンデモナイことをするインド人なのでしょう。
だから、厳しく抑え込む必用もあったのではないかと思います。
ですので五戒では

 

・殺すな
・盗むな
・嘘付くな
・不倫するな
・酒飲むな

 

というように全て禁止する言い方になったのではないかと思います。

 

日本人の場合は、多くは善性です。
とても優しく、協調性があって、温厚な性格です。
タイやミャンマーといった東南アジアの人々とも共通する温厚な性格を持った国民性でもあります。

 

こういった温厚な国では、インド人向けの言い方や表現よりも、もっとソフトで肯定的な表記が良いとも思います。そうしなければ「抑圧」になったり「萎縮」も起きてくる心配もあります。といいますか、実際に起きています。

 

ですので以前も書きましたが、五戒も

 

・命を大切にしましょう
・与えられたものだけを使い・必用なもので満足しましょう
・本当のことを言いましょう
・倫理道徳に根ざした恋愛をしましょう
・正常ま判断力を保つようにしましょう

 

このように肯定的な表記にしたほうが、実は日本人にはスっと受け入れやすくなると思います。

 

 

仏教を日本人向けに理解し直すことが大切

 

日本人は、頭がよく、モラルも発達し、調和のある国民性です。
それと、日本人の場合は、インド人のずぼらさやルーズさ、怠慢さとは違って、むしろ

 

・一生懸命になりやすい
・頑張りすぎ
・自己犠牲をする

 

といった傾向がありますので、戒律はあまり厳しい形はよくありません。
戒律だけでなく、仏道修行もそうです。

 

禅宗では、手厳しい修行をしたりすることもありますが、こういうやり方は、実は日本人の多くには合っていません。といいますか、修行が進まなくなることも多々起きます。日本人の場合は、緊張しやすく完全主義になりやすいので、心も身体もゆるめる方向で進めるのが望ましくなります。

 

ですので戒律も、もっとゆったりとして、リラックスするくらいがちょうどよくなります。

 

昨年の東日本大地震の際、大被害にあった日本人ですが、暴動が起きることはなく、悲しみをこらえて、協力しあい整然となすべきことを行いました。

 

この姿は、全世界にも報道され、この姿を見た世界中の人々は一様に驚嘆したといいます。
「信じられない!」「なんという高貴な民族なんだ!」「この状況で協力しあっている!」
壊滅的な大災害に遭遇しても、高い道徳心を失わないどころか、むしろ助け合い支え合う日本人の姿が信じられないくらい驚異的だったといいます。

 

日本人とは、高い道徳意識や規範意識を持った国民です。
こういう国において、インド人向けの宗教を取り入れる際、注意が必要です。
日本人とは、正反対の性質を持った民族の宗教ですので、導入する際、注意を要します。
もっとソフトなかたちで解釈し、取り入れる必用があると思います。

 

仏教は、道徳を守らない、屁理屈好き、個人主義といった、日本人と真逆の性質を持ったインドで誕生し、歪められて変遷し滅んでいいった宗教ということです。

 

そうしてお経はこういうインド人向けに行われたものをエッセンスとして整理されたということです。

 

さらに、歪められた仏教をそのまま中国経由で日本にも輸入されたということです。

 

 

 

釈迦族はミャンマー人(モンゴリアン)に近かったという説

 

経典を読んでいますと、お釈迦さまもゆったりとされた方であることが分かります。日本人やタイ、ミャンマーといった国々の人々に近い印象すらあります。

 

実際、お釈迦さまはモンゴリアンであり、ミャンマー人であったとする説もあるくらいです。釈迦族がモンゴリアンであったということは、昔から指摘もされていて、中村元氏、渡辺照宏氏、岩本裕氏らも述べています。

 

経典を読んでいますと、確かに、インド・アーリア人というよりも、ミャンマーやチベットのような蒙古人系を彷彿とさせます。ですので、お釈迦さま(釈迦族)は、日本人やミャンマー人、チベット人といった蒙古系人種だったのかもしれません。

 

事実、インドでは仏教ではめまぐるしく変遷し、最後は滅んでしまったものの、タイやミャンマーでは伝統を重んじて固く守られて、現在も伝承されて残っています。しかもこれらの国々では盛んに信仰され修行され、国教にもなっています。

 

もしかすると仏教は、モンゴリアン的な感性から誕生したのかもしれません。
お釈迦さまの釈迦族はミャンマー人に近かったというのは、なんとなく説得力を感じさせます。

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2012/10/05