誤った仏教が多い日本

仏教の概要は大体、ご説明したかと思います。三学(八正道)、四聖諦、縁起、気付きの瞑想、この辺りを理解しておけば、仏教の基本は分かるかと思います。

ほかには「無常・苦・無我」などもありますが、まずは上記の概念を知り、なおかつ本質的なポイントを押さえておくのが実践的な仏教になるかと思います。

仏教は、自分と向き合い、自己を錬磨もしていきますので、こういったことへ抵抗感や嫌悪感を抱く方も実際にいます。窮屈で自虐的なことをしていると誤解もされがちです。

ですので仏教、殊に原始仏教、瞑想となると、感性の鋭い方とか、向上心がある方とかが続けていかれるような印象があります。

各地でも瞑想会が開催されていますが、主催者の様子を見ていますと、品位を重んじて、静かで落ち着きのある空間を大切にされている感じです。やはり、こういう落ち着きさや品位というのは大切です。

中には、純潔を守って、俗世間的なものは一切持ち込まない主義で行っているところもあります。こういうところは凛とした良い緊張感もあります。とても真面目にされていて、好感が持てるところが多い感じがしています。

ですが、こういう真面目な路線は、残念ながら一般から関心が持たれにくいものです。このことは今も昔も同じです。ですので世の中には仏教の装いをした、好奇を寄せやすいものが多く出回っています。

代表的なのが、戒名やお守り、護符、祈祷がそうですね。ですが、これらはしっかりと既に生活や文化に根ざしています。元々の仏教には無いものでしたが、今さら変えるのは無理ですし、文化や慣習として定着していますので、これはこれでそのままにしておいて良いのではないかと思います。

しかし昭和初期くらいから広まっている新しい仏教観があります。あまりこういうことを言い出すとちょっと何ですが、新興宗教や新宗教には、新しい仏教観を打ち出して、大衆の関心を引きつけているところもあります。

信じる信じないは自由ですので、最終的には本人の意志次第ではあると思いますが、近年見聞する中でちょっとこれは、というのがいくつかあります。

たとえば、宿命や運命を転換するという教え、守護霊が得られるというもの、現世利益を約束する、人生での成功を教える、前世を見ることができる、超能力が得られる等々。こういったものは、仏教の主目的にはなりません。

修行していく過程において、このようなことが起きたり、得られるケースもあるようです。しかし、絶対ではなく、仏教本来の目的でもなく、強いて言うなら二次的、三次的な副産物です。

副産物であるものを主目的としてしまうところに、危惧を抱きます。なぜなら、これらの副産物は、人間が最も好みやすく、強い欲望とも密着しやすいからです。しかもこれを隠しながら(気付かれにくくしながら)、美辞麗句を並べる場合も少なくないため、本質を見抜けないまま浸ってしまうことも多くなっています。下手をすると、かえって欲望を強めてしまうことにもなりかねません。

特に宿命を転換する、因縁を切るといったものは、本来の仏教にはありません。本来の仏教では、心が清まる中で、人間関係や環境が整い、その結果、状況が好転するということはあります。いわゆる明確な因果関係において「運命が好転する」ケースですね。

しかしこれは何も仏教に限ったことではなく、普通に心の持ち様を変えれば、人間関係は改善されていきますので当たり前のことです。ですが、表現を変えれば、心の持ちようを変えることで「運命が変わった」と言えます。

しかし、何か呪文を唱えて運命を転換するとか、祈祷や祈念によって転換する魔法のようなものは、仏教にはありません。もしあったとしても、それは仏教本来のものではないということになります。

また超能力(神通力)は、仏教では必須ではありません。ちなみにお釈迦さまは、神通力は「恥である」とまでおっしゃっています(パーリ長部経典「堅固経」)。当時、ガンダーリー、マーニカという魔術(今でいう手品や超魔術なども含む)があり、神通力が引き起こす現象も、これらの魔術と見た目は同じなので、よろしくないことをおっしゃっています。

つまり、一般人を錯誤させて惑わすだけなので、お釈迦さまは神通力には否定的な見解を持っていたということです。

また教祖に依存したり、依存させることをしている所もありますが、本来での仏教では教祖への依存を戒めていました。お釈迦さまを絶対視したり、依存しようとする人々が当時からもいましたが、そういう行為を認めていませんでした。

お釈迦さまは、教祖への依存を戒めていました。お釈迦さまの最期の言葉に「自灯明・法灯明」とあります。「自らを拠り所として、ダンマを拠り所とせよ」という教えです。ですので、本来の仏教では、教祖や誰かに依存してしまうことは、正しいあり方ではないということです。

このように説明しますと、驚かれる方もいらっしゃいます。しかし、事実はこの通りとなります。様々な思想や宗教もあり、信じる信じない、興味がある興味が無いは、各人の好みでもあると思いますが、少なくとも原始仏教は自己と向き合い、心を浄めていくことが軸となる実践ということになります。