業報のメカニズム~心の有様が重要な理由

※こちらからのつづき。

もう一つ例をあげましょう。

過去世において、Bさんは「しょうがねえな」という気持ちで多額のお金を寄付続けていました。仕方ないという理由からでした。

来世でBさんは、過去世において行った寄付の報いで、物質的には大変恵まれるようになりました。けれども豊かを実感できません。物に恵まれてはいるのですが、どこか虚しさがあります。潤いの無い生活。Bさんは、そういう人生を過ごします。

施しは尊いことなのですが、Bさんは心を汚しながら行ったため、その心が報いとして返ってきているわけです。

世間には、意外とこういうケースはありますよね。物に恵まれても心が満たされない。案外多いかもしれません。こういった現象を引き起こす一つの理由が、偽善から施しを行った場合があります。

さらにもう一つ例をあげましょう。
過去世においてCさんは、自分を虐げながら、我慢しながら施しをしました。内心、我慢しながらやっていたので、不平や不満に満ちていました。「これだけ必死にやっているんだから、いつか自分に良い報いがくるだろう。」とメラメラと復讐心に似た思いを燃えたぎらせながら善行を行っていました。

Cさんは、死後、転生して人間にまれ変わりました。大変裕福な生活を送ります。しかし心が満たされません。同時に、常にムシャクシャした気持ちになり、横暴な態度を取ることも多くなります。やがて権力に物を言わせて独裁的な体勢まで築いてしまいます。その姿は暴君ネロのようでもあり、独裁者として君臨します。

Cさんのようなケースも意外と起きています。独裁的な企業家、自己愛性人格障害者と言われるタイプです。こういった屈折したケースの背景には、前世において怒りに満ちた心で布施や事業を行った場合があると推測できます。

施しの見返りとして形(物質)はは恵まれても、汚れた心の見返りとして汚れた心が異熟として結晶化するわけでです。我慢し過ぎたりストレスを抱え込みすぎることも良くないことがお分かりでしょう。ちなみにこういったケースは過激な企業や新興宗教で時々見られます。

人生劇場における矛盾したケースを2例紹介しました。こういった矛盾は何故起きるのか。その一つが、「心の有様」と「施しの有様」のアンバランスにあるわけです。

だからお釈迦さまは心を浄める「戒」と施しとしての「施」の両方をバランス良く行うこと、特に、心を浄めることを力説もされたわけです。また、感情を激しくさせることよりも「中庸」をおっしゃったわけです。悟りに至る以前に、良い輪廻をするために、「戒・施」を基本として、中庸の教えを説かれています。

なお過去世の業は複雑に絡んで結晶化しますので、人生劇場における矛盾は、複数の過去世の業が絡んでいるとも見ることができます(業は7つに分割)。ですが、「心の有様」と「施しの有様」の矛盾は、来世において矛盾した事象を引き起こす可能性が出てくるということです。

おわかりでしょうか。

輪廻転生における心の働きです。行った心にふさわしい環境なりが作られていきます。そして心が感受するのですね。

ちなみにパーリ仏典の「天宮事」というお経には、天界へ往生したケースが数多く掲載されています。反対に「餓鬼事」という経典には、餓鬼界へ墜ちた人間の話が数多く掲載されています。これらの話しのポイントは「心の状態です」。どんなに布施をしても、心が汚れていたために餓鬼の墜ちたケースもあるくらいです。

物や人に恵まれつつも「つまんねえなあ」とか「もうこんな裕福なのは結構」とか常々思っていると、その心が来世で結晶化します。来世は「つまらない」「貧乏がいい」という感受を心が受けるようになっていくということです。

いくつか仏教が述べる業のメカニズムを紹介しましたが、普通に思われている業の仕組みとはかなり異なると思います。

心の状態が重要なのです。そして心が業を受けるのですね。行いもさることながら、心が業を形作り、心が受けるようになるのです。これがお釈迦さまが喝破した業のメカニズムなのです。

仏教では、業は心が受けるとしています。
だから、仏教の善悪論も心の状態になるわけです。また中庸という姿勢も重要にもなってくるわけです。

善悪も心が清らかか、汚れているか、となるわけです。全部、関連しているのですね。一つの真理に基づき、すべて説明・解釈ができるようになっているのです。これが仏教の教えなのです。非常に深淵かつ密接に関連していることがお分かりいただけたのではないかと思います。

今回は業の仕組みについて、その具体的なケースを一部、ご紹介いたしました。