さて、ここ数日、輪廻転生・業・中庸といったことについて言及しています。
読まれている方は、どういった所感を抱いているか分かりませんが、人によっては衝撃を受けたり、今までの価値観をひっくり返されたりした感想を持った方もいるかもしれません。
お釈迦さまは、ダンマは微細で理解し難いのでダンマを説くことにためらったと言われています。
お釈迦さまとは違いますが、私もブログを開始することに躊躇したくらいです。やはり一般的に信じられている価値や信条と正反対なことや、非常にデリケートで繊細な部分がありますので、人によっては苦痛を感じたり生理的に受け付けなくなることが懸念されたからです。
読者の中には、私の知り合いも数人いますし、それこそ人間関係が悪くなりはしないかと思うところはありますが、しかし、こうして原始仏教の世界を説明することで、普段、私が考えていることや世界観が分かっていただけるでのはないかとも期待しています。
今日もおそらく驚くような記事になるかもしれません。業の性質は数日前に書きましたが、今日はより重要なことを紹介したいと思います。それは「業の報い」に関することです。
業は報いとなって返ってくることはご存じでしょう。ですが、仏教が説く業報は、通常思われている仕組みとは違います。
仏教では、業による結果は「心が受ける」としています。業報は、心が受けるのです。
心が受ける?
はて、どういう意味ですか?と答えが返ってきそうです。
文字通り、業の報いは必ず心が受けます。
業の報いと言いますと、病気だとかお金が無いとか、仕事が無いとか、そういう「形」として返ってくると思われがちです。大抵、そう述べていますし、そう受け止められています。
しかし実はこれは違います。違うというよりも不正確です。
業の報いは現象で受けるよりも、「心が感受するかたち」で返ってきます。そして、心が感受するように、形をともなってくることがある、ということです。分かりますか?この微妙なニュアンスが。
分かりやすい例でいいましょう。
たとえば過去世において、Aさんは心を込めてXさんを助けました。Aさんは心から助け、また助けられたXさんは心底感謝し、一生、Xさんはその恩義を心にとどめるほどでした。
Aさんは死後、人間として誕生しました。過去世においてXさんを助け、その報いとして友人に恵まれ、人間関係で助けられて「楽」を長期間にわたって感受し続けます。一生は、特に苦労らしいことはなく、努力することなく、穏やかな人生を過ごします。
これは分かりやすい例ですね。業の報いとはこういうものです。行いの結果は、心が受けます。この例では、心が「楽」を受けるのです。しかも人間関係を通じて「楽」を得るのです。
この状態を「福」ともいいます。しかし「福」というのが「外見」的なことを意味することが多くなります。外見的な「福」よりも、心が感受する「楽」に、業報のポイントがあるわけですね。
業の報いは、心が感受するのです。大金持ちになるとか、贅沢な生活ができるとかは、二の次です。心が業の結果を感受するわけです。
分かりますでしょうか。
(続く)