さらにお釈迦さまはジャイナ教の修行者らに疑問を投げかけます。
「あなた方は、苦の原因をカルマといいますが、どの苦がどのカルマと対応しているのか分かっているのですか」
「いいえ分かりません」
「自分が受ける苦と、その原因のカルマが分からなくて、どうして断ち切ることができるのですか?」
「(一同沈黙)」
これもこちらと同じです。
前世のカルマが、現世の苦の原因となっているとしても、どのカルマが、現在の苦悩と因果関係になるのか。それすらも分からないで本当に前世のカルマを滅ぼすことができるのですか?と指摘します。
よく新興宗教で「前世のカルマを切る」とかいうところがありますが、お釈迦さまからすれば「それは妄想ですね」と一刀両断されます。明確な因果関係が得られない場合、それは単なる空想や妄想になります。
このジャイナ教への指摘も同じです。冷静になって考察すれば分かることです。実際に確かめることができなくて、どうして処理や対応ができるのでしょうか。
医療はそうでしょう。病気の原因が分かって、初めて適切な治療ができます。原因を誤れば医療ミスです。大変なことになります。医療の世界ではしっかりと病根となる原因を調べるのも、正しい治療をするためです。
この姿勢は仏教でも同じです。仏教の応病与薬の姿勢は、原則的に明確な因果関係を踏まえた指導になります。
何事も原因が分かって、適切かつ正しく対応ができるものです。中には長年の経験で治療できるケースもありますが、それとて原因が分かるからです。
原因が分かって初めて対処ができるものです。この姿勢は合理的であり科学的でもあります。
お釈迦さまも同じでして、明確な因果関係を考慮されていました。
実際、お釈迦さまは、苦悩の原因が前世にあると喝破したとき、具体的にその前世の業を指摘しています。漠然とではなく、具体的にビシっと指摘するのがお釈迦さまの特徴です。
お釈迦さまの場合は、漠然と「前世の業・カルマ」とひとくくりにすることは無かったということです。具体的に前世の業と現世の現象を結びつけて説明されています。
お釈迦さまはジャイナ教の修行者に、またこうも問いかけます。
「あなたが方は、カルマを断つために、苦行をしていますよね」
「はい」
「では、そういう苦行に励むのも、あなた方のカルマなのではありませんか?。過去世において、そういう苦行をすべきカルマを積んでいるのではありませんか?」
「(一同沈黙)」
これは痛烈な皮肉です。
苦行、苦行と盛んに行うのは、前世において苦しむ原因を作っているのでしょうとズパっと切り込みます。言われたほうは閉口してしまいますね。
ジャイナ教の苦行に励む姿勢は、いわゆる「カルマ落とし」です。苦行をすることで罪を償う姿勢に似ています。心情的には理解もできますが、これは実はあまり意味の無い行為だったりします。
結局、お釈迦さまは、「自分で確かめられもしないことを信じて、そこに原因を求めるなら、それは単なる妄想にしか過ぎません」とおっしゃいたいのです。
仏教が現在形であること、確かめられないことは安易に信じないといった姿勢は、妄想を廃して、リアルで地に足の付いた歩みこそ誤りなく心が成長していくからなのでしょう。
妄想や想像をベースにした思想や宗教に基づくアプローチは必ずしも有益ではないということです。
こちらでは前世などに原因を求めて対処する姿勢を手厳しくも注意しましたが、このように申し上げるのも妄想や空想に基づく見解が必ずしも有益ではないからです。
仏教の体験主義とは、実に正しく成長していくための基本となる姿勢だったりします。