仏教

業(カルマ)エントリー一覧

業(カルマ)の本当の意味とは?

輪廻転生について昨日から(※1,2,3)書いていますが、輪廻転生と関連するのが「業」。カルマですね。

 

業(カルマ)はご存じでしょう。
ですが、最初にお断りしておきたいのは、近年使用されている意味と、本来の意味は違うということです。

 

「え?」と思うかもしれませんが、通常使われている「業」の意味は、本来の意味ではありません。

 

最近はスピ系でも業といえば、何やら「運命を支配しているエネルギーのようなもの」として受け止められていますが、これは全くの誤りです。

 

少なくとも、本来の業(カルマ)の意味とは違います。
お釈迦さまが在世当時に言われていた「業」とは、

 

・行為
・結果をともなう行為

 

こういった意味になります。

 

一言でいえば、「行為」となります。「行い」です。
運命を支配するパワーのようなものではありません。結果がともなう「行い」「行為」を「業」と言っていました。

 

考えてみてください。
何でもそうですが、何か行いをすれば、その結果はともなってきますよね。
一生懸命に働けばお金が手に入ります。
健康に注意をしていれば病気をしなくなります。
「当たり前」のことですよね。
因果関係のある「行為」を「業」と言っていたわけです。

 

ところが近世では、元々の業の意味ではなく、もっと不可思議で運命的な拘束力を伴ったパワーのようなものとして受け止められています。当時、インドで言われていた業、または仏教でも使用していた業の意味は、こういうオカルトめいたものではありません。

 

どうして別の意味になったのでしょうか。一つは、インドの宗教の一つ、ジャイナ教の影響があると思われます。ジャイナ教では、カルマを断つ教えと実践を提唱しています(※ジャイナ教についてはこちらで書いています)。それと、日本に仏教が伝来し、業の考え方が変容していったと考えられます。

 

しかし業とは、結果をともなう行いをいいます。

 

今、非常に厳密に表記しています。
なぜなら、結果をともなわない(結晶しない)業もあるからです。
結果がほとんど生じない業(行い)もあるのですね。分かりやすくいえば、特別に心が動かずに何気なく行っている行為です。こういったのは結晶化しないか、しにくいものです。

 

しかし心が反応した行為は業となって結果を必ず生じます。
たとえば、募金、慈善事業、寄付、こういった行為は、自分自身、または相手の心を良い方向へ動かし、良い業となり結果をもたらします。反対に、五戒や十善戒を破るような悪行為は、心が汚れるため悪い結果をもたらします。

 

大事なことは、これらの業がもたらす結果は、現世だけでなく、来世、次の来世・・・に引き継がれていく点です。

 

近年の業(カルマ)の概念は、こういった来世にまで引き継がれる現象(来世に結果を生じる現象)を拡大解釈し、オカルトめいた思想にまで発展していったことも考えられます。

 

ですが、元々は、運命をガチガチに拘束するような意味では無い、ということですね。業とは、「結果をもたらす行為」ということです。

 

まずは今回は、正しく「業」を理解することから書いてみました。

 

話しは続きます。

続きを読む

2012/06/05


異熟という業(カルマ)

さて話しは続きますが、輪廻転生のことは原始仏教でも出てきますが、その直後のアビダルマ仏教で精密に分析され洞察も深まっていきました。

 

業については、アビダルマ仏教の精密な分析が参考になるところがあります。そこでここ数日、アビダルマ仏教の業の分析に基づく見解を書いています。

 

アビダルマ仏教では「異熟(いじゅく)」という聞き慣れない業(カルマ)の結果を指摘しています。

 

異熟。
これは、一言でいえば「宿命」のような結果(業による結果)です。
異熟はスピ系や新興宗教で言われている業の概念に近いものです。

 

とはいっても、それほど因業めいたものではなく、言ってみれば、その人の「個性」となる核をいいます。人それぞれ特徴や個性がありますよね。
陽気な人、冷静な人、軽率な人、思慮深い人、社交的な人、研究好きな人、それぞれ気質があります。こういったその人の核となる傾向を「異熟」といいます。

 

これを聞けば「なあんだ」と思いますよね。それぞれの個性になるわけです。

 

もっとも中にはこの異熟が、厄介な場合があります。たとえば人を騙す癖のある人、嘘を言いやすい人、欲望が異常に強い人、落ち着きがなさすぎる人、こういったトラブルを引き起こしやすい異熟として生まれてくる方もいらっしゃいます。

 

実は、こういった特殊なケースの異熟が、近年のスピ系や新興宗教で言われている「業」の概念に近くなります。

 

異熟は、人それぞれ違います。中には大変優秀な異熟を持ち、「三因」という生まれの方もいらっしゃいます。

 

異熟のことを考えれば、人間は決して平等ではないことが分かります。機会は平等であっても、人間はスタートラインから全然不平等な生命です。このことは人間に限らず、全ての生命が該当し、あらゆる生命は異なっています。不平等ととらえるか、個性ととらえるかで、その後の人生観も異なりましょう。

 

そうして大切なことは、「何故、こういう異熟を持って生まれてくるか」です。

 

この答えが、前世での行い(業)です。前世の業(行い)の際だった傾向、継続されてきた傾向が、現世での「異熟」として形成されてくることですね。

 

日頃の自分の行動、思考、感情の出し方を見ていれば、来世、どういった異熟を持った人間になるのか分かります。最近はテレビの影響が強いですので、吉本興業のようなノリの人生を送っていれば、掉挙(じょうこ)という煩悩が異熟となって、落ち着きが無く、思考力の弱い生命として誕生してくるでしょう。テレビに出てくる人の真似をするのは大変危険です。

 

反対にリラックスを心がけ、家族や友人を大切にして人にも親切にし、言葉にも気をつけて思慮深く生活をしていれば、来世は、天界か、人間であるなら大変優秀な生命として誕生するでしょう。

 

業は、来世において異熟となって形成もされます。
そしてもっと重大なことがあります。
このことは、ほとんどと知られていない、輪廻転生に関する重大な秘密です。

 

この話しは次回に続きます。

続きを読む

2012/06/06


業は7つに分裂する

さて今回は前回の続きです。輪廻転生に関する知られざる重大な秘密です。
初めて知ることになる人がほとんどでしょう。
仏教を知っている人でも知らない人が多い業報に関する仕組みです。

 

仏教では輪廻転生を瞑想の禅定力で詳しく調べたのでしょう、後世のアビダルマ仏教では、業について大変詳しく調査し分析もしています。

 

その中でも重要なのが「業が七分割される(七倍になる)」という発見です。あるいは、一つの行為は、7回にわたって報いが訪れるということです。

 

「なに?」って思うでしょう。

 

原始仏教の次に出てきたアビダルマ仏教では、業について精密に分析し調査していきました。そうして分かってきたことは、業は7つに分裂(7倍になる)ということなのですね。どのようにして7分割するかといえば、

 

現世 ⇒ 来世 ⇒ 2番目の来世 ⇒ 3番目の来世 ⇒ 4番目の来世 ⇒ 5番目の来世 ⇒ 6番目の来世

 

といった具合に、現世を含めて6度の転生にわたって結果が出てくるようになります。
一つの行為をした場合、心は7回生まれるといいます。その7つの心がそれぞれ結果を招来するというのですね。

 

しかも業の結果の出方に強弱がでてきます。

 

これは相当な衝撃的な業の事実ではないかと思います。
どういう形で出てくるかといえば、

 

・現世 ・・・弱い
・来世・・・強い
・2番目の来世・・・非常に強い
・3番目の来世・・・非常に強い
・4番目の来世・・・非常に強い
・5番目の来世・・・弱い
・6番目の来世・・・微弱

 

というように出て来るといいます。
2番目、3番目、4番目の生涯において大変強く出てくるようなのです。

 

この事実はショッキングかもしれません。

 

業の結果は、悪いことだけでなく、良いことも、この法則通りに結果を招来します。

 

現世において良いことをしても、それが強く出てくるのは2番目の来世以降ということですね。

 

ですので、現世において非常に悪いことをしても、上手く逃げてしまったり逮捕されなかったりして、報いを受けない人も出てくるわけです。しかしその代わり、来世のどこかで必ず出てきます。

 

ただし上記の法則は原則です。
一般的に「悪」は速やかに結晶化していくようです。その事実はパーリ経典を読んでいくと散見されます。パーリ経典のダンマパダには「悪は凝固しやすいが、善は固まりにくい」という記述があります。
悪のほうが結果が出やすいのですね。

 

こういったことと関係しているのかどうか分かりませんが、仏教でも懺悔や反省を奨めています。実は、懺悔・反省して、その時点で罪を認めて受け入れることをすれば、業の結果を先送りにしないで、現世において早めに精算させることができるようです。7回の生涯にわたって苦悩を招くよりも、今、精算してしまうやり方ですね。ですが、微弱であっても業の結果は、7回の生涯で出てくるのかもしれません。

 

このようにアビダルマ仏教では、業を精密に調査し分析し、上記のように述べています。

続きを読む

2012/06/07


業の考察

このように業は、7度の転生(生涯)にわたって影響(結果)をもたらすといいます。
怖いと感じるかもしれませんよね。
ですので、お釈迦さまは「五戒を守りましょう」とおっしゃるわけです。五戒または十善戒を守っていれば、基本的に大変な不幸に遭うことはありません。

 

良いことを行う(良い心でいる)ことも大切ですが、悪いこと(悪い心でいる)をしないように奨めるのも、業のこういった7分裂(7倍)になる性質を知っていると、腑に落ちるはずです。何故、仏教は「悪いことするな、悪いことするな」と口酸っぱく言うかといえば、業の性質を見切っているからなのでしょう。

 

業は、原則的に帳消しになりません。
悪いことをしても、良いことをすれば帳消しになる、と思われる向きもあります。しかし実際には帳消しにはなるとは限らないようです。悪いことは悪いことで報いと出て、良いことは良いこととして報いとなって出てくると、仏教では説きます。このこともショッキングかもしれません。
ですが現実的なことをいえば、代替として善行をすることは良いことです。これもまた機会があれば説明したいと思います。

 

時々、宗教や、オカルト的な思想の中に、先祖からの因縁や前世からの因縁を切ることができると説くところがありますが、原則的にこれは不可能です。少なくとも仏教では、このようなことは言いません。なぜなら、業の性質上、これはできないからです。原則的には。

 

業の話しは怖いところがあります。
この恐怖心や不安感を逆手にとって利用し、積徳だ、先祖の霊を成仏させるといって、多額の金銭を求めるところもあります。
おかしげな新興宗教や思想にかぶれて妄想を強くし、変な業を作らないように注意しなくてはなりません。

 

業は、このように7倍になるといっても、良いこと(心)も7倍(7分割)されて結果をもたらします。人に施しをしたり、丁寧な言葉を心がけたり、良い心でいますと、それが最低でも7倍(7分割)され良い結果をもたらします。

 

ですのでお釈迦さまは「施(ほどこし)をしましょう」とも言われるわけですね。施しをすれば豊かさとなって返ってきます。最低でも7倍です。

 

ただし、施しも、清らかな心で行ったほうがいいのです。この理屈は、もうお分かりですよね。

 

そうして施しは、清らかな心で、できるだけ清らかな対象に行えば行うほど、その結果は大きくなると、経典には書いてあります。何百倍、何千倍となって戻ってくるとあります。

 

もっとも、こういう見返りを求めて何かをする、というのもさもしいです。善行をするときは、見返りを求めないで、考えないで行うのが理想的になります。

 

このことは心も同じです。清らかで落ち着いた心でいるなら、その心は何百倍、何千倍となって返ってくる、つまり来世では、穏やかで楽しい日々を過ごすことができるようになる、ということです。

 

原始仏教(アビダルマ仏教)では、業をこのように分析しています。悪いことも、良いことも、最低、7倍となって戻ってきます。自分自身が清らかであればあるほど、また施しをする相手や関わる相手が、清らかであればあるほど、結果がよくなるということですね。

 

原始仏教(アビダルマ仏教)における業報の考え方とは、このようになります。

 

業への考察が深まりますと、心をよくし、言葉を丁寧にし、行動も上品に、そして落ち着いた生活を心がけるようになります。必然的にそうなっていくでしょう。だから仏教では業の真実を語るのでしょう。

 

メディアが垂れ流す情報や流行に乗じて、洗脳されて、心を汚し、言葉を乱暴に使い、行動も粗野で、落ち着きを失い、道徳を破壊するような生活にならないように注意しましょう。こういった生活を続けていれば100%、悪業となっていきます。

 

話しはまだまだ続きます。

続きを読む

2012/06/08


業ではなく明確な因果関係が多い

(つづき)
業への考察が深まっていくと、いろいろなことに気がついてきます。
人生とは、悲喜こもごもで、誰もがつらい目にあったり、喜びにあったりします。
しかし、多くは、明確な因果関係で物事が起きていることが分かってきます。
確かに、前世の業が関与するケースもありますが、人生上のほとんどのことは、因果関係の連続です。

 

人生上で理不尽過ぎる大変な目に遭う場合もあります。一生懸命にやっても報われない場合です。必死になって勉強したけれども、希望の学校へ行けなかった。一生懸命に相手に尽くしたけれども離婚することになった。一生懸命に事業に頑張ったが、倒産した。
こういう理不尽さが、人生上で起きる場合もあります。

 

こういった理不尽な場合は、過去世において、何か悪心を起こして悪業を犯した可能性があります。それが現世で結晶化しているのでしょう。しかしもしかすると、本人が気付いていない明確な因果関係があるのかもしれません。

 

いえ、実は、明白な因果関係がある場合が多のです。案外、気がついていません。仏教で気付きの瞑想を推奨するにも、こういう気付きの力を高めることも関係しているのでしょう。

 

注意して欲しいのは、人生上で理不尽さに遭った場合、それが先祖の霊的な影響とか、何かの霊の影響と考える方もいらっしゃいますが、実はそのようなことは無いということです。こういったことはほとんどありません。全く無いとは言えませんが、ほとんどないようです。このこともいずれ詳しく説明いたしましょう。※こちら少し記述しました

 

そうして、因果関係を超越した僥倖(大変な幸運)に遭遇するなら、過去世において良いことをした可能性があります。それが現世で結晶化して幸せとなって享受しているのでしょう。

 

僥倖と言えるような、因果関係を超越したラッキーに遭遇するのは、過去世の善行の可能性が高くなります。しかし、天使とか守護霊とかに守られているという人もいますが、こういったことも滅多にありません。

 

過去世の行いが、現世に影響を及ぼすことは確かにあります。しかし全てがそうでは無いということです。人生上の幸・不幸の全てが、過去世の報いとは限りません。このことは増支部経典の何カ所かにも書かれています。

 

乱暴な言葉を使えば、上品な人は近づきません。
嘘を付けば、人は離れていきます。
暴力的であれば、温厚な人は去っていきます。

 

全部当たり前のことです。
人生は、当たり前の因果関係が多くあります。

 

最近はやたらと前世や先祖の因縁めいたものと絡めて説明する風潮が多い様子です。原因と結果が明白な因果関係までも「前世のお〜」とかおっしゃる方がしますが、これはあまりにもナンセンス過ぎます。よく考えてください。

 

不摂生な生活をすれば、健康を害します。
勉強しなければ、成績は上がりません。
人に嫌がらせをすれば、疎まれます。

 

しかし世の中が悪ければ、なかなか成果が出ないときもあります。
「これも前世のお〜」「地球のカルマがあ〜」とか言われる方もいますが、冷静になりましょう。

 

世の中の事象は、個人的な前世とは関係がありません。
大地震もそうです。
地球には天変地異は数多く起きています。

 

地球のカルマとか言い出すケースもありますが、業の本質が分かれば、「地球のカルマ」と言ったって、「なんですかそれ?」となることはお分かりでしょう。「業」は「結果をともなう行い」です。地球が、結果をともなう行いをしていますか?自然現象です。

 

「いや、集合的無意識があ〜」とか言う人もいるかもしれませんが、いい加減にしなさい。そういう妄想はほどほどに。

 

こういった考え方を完全否定はしませんが、あまりこういう考えて方をしていると「癡(ち)」を強めてしまいます。煩悩で言うところの「痴(ち)」を増していきます。
癡とは、頭脳が明晰に働かなくなる煩悩です。
鋭い判断や洞察はできなくなっていきます。

 

何かにつけて「前世のお〜」とか結びつけるようになると、努力し精進する気持ちも弱くなっていきます。無意識のうちに前世に責任転嫁し、自分の罪を覆い隠してしまうこともありがちです。しかも努力をしないで楽な方法ややり方を求め、何かとよろしくありません。

 

人生の大抵は、因果関係で説明がつきます。
中には、因果関係では説明できないことがおきます。
そういうとき、初めて「前世の業が関係しているかもしれない」と考えるくらいが丁度良いのです。

続きを読む

2012/06/09


前世の業の正しい理解

(つづき)
ですから、当たり前の因果関係までをも「過去世の報い」とするのは考えすぎになります。過去世の報いとは、一生懸命やっても報われないといった理不尽な因果関係において見られることが多くなります。

 

通常は、因果関係の通りに作用します。
やればやっただけ、成果が出てきます。
成果が出ず、その原因を精密に分析し精査しても分からない場合、その時初めて「前世の業かもしれなんなあ」と考えるので丁度よいのです。

 

もっともスタートラインそのものに違いがあるのは事実です。これらには、過去世における業が関与しています(異熟)。

 

過去施の業が関与しているのは「理不尽さ」が目立つ場合です。
明確な因果関係の原則を超越しているケースに限定されると考えていいでしょう。

 

正しいやり方でいくら一生懸命にやっても全く報われないとき、それは過去施の行いの結果が関与していると思われます。
反対にほとんど努力しなくても願いがかなってしまうのも、過去施の良い行いが関与しています。

 

ですが、努力がムダという意味ではありません。また努力が虚しいということではありません。業による影響はいずれ消えていきます。そういう性質のものです。

 

何かにすがったり拝んだりしなくても、業は必ず費えて消えていくものです。ですから、原則的に、人生は前向きに、努力を心がけて生きていく方が正解になります。またそういう生き様が新しい業となって、来世にも良いかたちで影響してきます。

 

あまり業を恐ろしがる必要は無いのですが、業を正しく理解することに慣れないうちは恐怖や不安のほうが強くなるかもしれません。

 

正しいことをすれば、必ず、正しい結果が訪れます。
良い心で行えば、必ず、良い心の状態になります。

 

当たり前のことですが、この当たり前のことの重みが分かると、人生観や価値観、世界観が変わっていきます。

続きを読む

2012/06/10


カルマ・悪因縁を切る教えはジャイナ教がルーツ

無闇に前世に原因を求める姿勢が何故よろしくないかといいますと、お釈迦さまが実はそうおっしゃっているからです。

 

仏教が誕生する少し前に、インドにはジャイナ教という宗教が誕生しました。ジャイナ教は、マハーヴィラという人がはじめた宗教です。苦行を推奨する宗教です。

 

ジャイナ教では、生命は業(カルマ)が原動力となって輪廻転生をしているとみなして、カルマを断ちきることで解脱できると説きます。そしてカルマを断つために苦行を行います。苦行と瞑想修行によって、カルマを構成している物質を滅ぼして、カルマから解放されて解脱するという教えです。

 

ジャイナ教では、業(カルマ)を掘りさげて、運命を拘束するエネルギー(物質)としてとらえました。このジャイナ教が提唱するカルマの概念は、近年、日本の宗教等でも提唱されるカルマの概念に大変よく似ています。

 

ジャイナ教では、魂にカルマが物質として付着しているため、魂が不自由となり、カルマの拘束を受けて輪廻転生すると考えます。しかし苦行を行い、あわせて苦行に耐えられる心身となるためにチャクラやクンダリーニを開発し、カルマを魂から取り除こうとします。

 

ジャイナ教は苦行を推奨し、中でも餓死を最高に尊びます。餓死こそ名誉ある生き方であるとします。大変ストイックといいますか、異様な宗教観があるのですが、熱心に苦行に励む修行者もいました。現在でもジャイナ教はインドでも信仰者の多い宗教です。

 

ですがお釈迦さまは、ジャイナ教の実践法に欠陥があると指摘します。お釈迦さまは人達にこう言います。

 

「あなた方は、苦の原因をカルマといいますが、そのカルマを見たことがあるのですか?」
「いいえ」
「全く見たことが無いのに、どうして苦の原因(カルマ)を無くすことができるのですか?」
「(一同沈黙)」

 

見たことも無ければ確かめたことも無い前世のカルマを。どうして滅ぼすことができるのですか?と素朴に疑問を投げかけています。当時、宗教は全て「体験主義」でありました。当時の宗教は、現代の宗教とは違って、全て「瞑想体験」が根底にあり、直接体験しているものでした。

 

しかし、その体験が中途半端であったり、錯覚・勘違いであったりもします。お釈迦さまが当時、批判した宗教も、瞑想体験の稚拙さ、体験から得られたことへの解釈の誤りに対してでした。

 

このことは案外知られていないことですが、当時の宗教界は、ほぼ全てが「体験」に基づくものでした。

 

こちらにも書きましたが、仏教は哲学ではありません。体験や結果が先にあって、それを言語化したものになります。

 

ですので、体験を伴わない概念や思想というものは、「妄想」「想像」の類として扱われます。さしずめ現代の宗教の多くは「妄想」として一刀両断され、お釈迦さまが現代にいらっしゃたなら、まったく相手にもしないでしょう。

 

小説という虚構の世界で、リアルな真理を探していることと似ています。滑稽な姿にも映るのでしょう。

 

お釈迦さまの上記の発言の背景には、体験を伴わない取り組みへのいかがわしさへの指摘があります。想像で前世のカルマを想定し、想像の産物を取り除こうとしているのではありませんか?と指摘しています。

 

ごもっともだと思います。

続きを読む

2012/06/12


ジャイナ教と仏教と前世の業・カルマ

※こちらからの続きです。

 

さらにお釈迦さまはジャイナ教の修行者らに疑問を投げかけます。

 

「あなた方は、苦の原因をカルマといいますが、どの苦がどのカルマと対応しているのか分かっているのですか」
「いいえ分かりません」
「自分が受ける苦と、その原因のカルマが分からなくて、どうして断ち切ることができるのですか?」
「(一同沈黙)」

 

これもこちらと同じです。
前世のカルマが、現世の苦の原因となっているとしても、どのカルマが、現在の苦悩と因果関係になるのか。それすらも分からないで本当に前世のカルマを滅ぼすことができるのですか?と指摘します。

 

よく新興宗教で「前世のカルマを切る」とかいうところがありますが、お釈迦さまからすれば「それは妄想ですね」と一刀両断されます。明確な因果関係が得られない場合、それは単なる空想や妄想になります。

 

このジャイナ教への指摘も同じです。
冷静になって考察すれば分かることです。実際に確かめることができなくて、どうして処理や対応ができるのでしょうか。

 

医療はそうでしょう。
病気の原因が分かって、初めて適切な治療ができます。原因を誤れば医療ミスです。大変なことになります。医療の世界ではしっかりと病根となる原因を調べるのも、正しい治療をするためです。

 

この姿勢は仏教でも同じです。仏教の応病与薬の姿勢は、原則的に明確な因果関係を踏まえた指導になります。

 

何事も原因が分かって、適切かつ正しく対応ができるものです。中には長年の経験で治療できるケースもありますが、それとて原因が分かるからです。

 

原因が分かって初めて対処ができるものです。この姿勢は合理的であり科学的でもあります。

 

お釈迦さまも同じでして、明確な因果関係を考慮されていました。

 

実際、お釈迦さまは、苦悩の原因が前世にあると喝破したとき、具体的にその前世の業を指摘しています。漠然とではなく、具体的にビシっと指摘するのがお釈迦さまの特徴です。

 

お釈迦さまの場合は、漠然と「前世の業・カルマ」とひとくくりにすることは無かったということです。具体的に前世の業と現世の現象を結びつけて説明されています。

 

 

お釈迦さまはジャイナ教の修行者に、またこうも問いかけます。

 

「あなたが方は、カルマを断つために、苦行をしていますよね」
「はい」
「では、そういう苦行に励むのも、あなた方のカルマなのではありませんか?。過去世において、そういう苦行をすべきカルマを積んでいるのではありませんか?」
「(一同沈黙)」

 

これは痛烈な皮肉です。
苦行、苦行と盛んに行うのは、前世において苦しむ原因を作っているのでしょうとズパっと切り込みます。言われたほうは閉口してしまいますね。

 

ジャイナ教の苦行に励む姿勢は、いわゆる「カルマ落とし」です。苦行をすることで罪を償う姿勢に似ています。心情的には理解もできますが、これは実はあまり意味の無い行為だったりします。

 

結局、お釈迦さまは、「自分で確かめられもしないことを信じて、そこに原因を求めるなら、それは単なる妄想にしか過ぎません」とおっしゃいたいのです。

 

仏教が現在形であること、確かめられないことは安易に信じないといった姿勢は、妄想を廃して、リアルで地に足の付いた歩みこそ誤りなく心が成長していくからなのでしょう。

 

妄想や想像をベースにした思想や宗教に基づくアプローチは必ずしも有益ではないということです。

 

こちらでは前世などに原因を求めて対処する姿勢を手厳しくも注意しましたが、このように申し上げるのも妄想や空想に基づく見解が必ずしも有益ではないからです。

 

仏教の体験主義とは、実に正しく成長していくための基本となる姿勢だったりします。

続きを読む

2012/06/13


業の報いは心が受ける

さて、ここ数日、輪廻転生中庸といったことについて言及しています。

 

読まれている方は、どういった所感を抱いているか分かりませんが、人によっては衝撃を受けたり、今までの価値観をひっくり返されたりした感想を持った方もいるかもしれません。

 

お釈迦さまは、ダンマは微細で理解し難いのでダンマを説くことにためらったと言われています。
お釈迦さまとは違いますが、私もブログを開始することに躊躇したくらいです。やはり一般的に信じられている価値や信条と正反対なことや、非常にデリケートで繊細な部分がありますので、人によっては苦痛を感じたり生理的に受け付けなくなることが懸念されたからです。

 

読者の中には、私の知り合いも数人いますし、それこそ人間関係が悪くなりはしないかと思うところはありますが、しかし、こうして原始仏教の世界を説明することで、普段、私が考えていることや世界観が分かっていただけるでのはないかとも期待しています。

 

今日もおそらく驚くような記事になるかもしれません。
業の性質は数日前に書きましたが、今日はより重要なことを紹介したいと思います。
それは「業の報い」に関することです。

 

業は報いとなって返ってくることはご存じでしょう。
ですが、仏教が説く業報は、通常思われている仕組みとは違います。

 

仏教では、業による結果は「心が受ける」としています。
業報は、心が受けるのです。

 

心が受ける?

 

はて、どういう意味ですか?
と答えが返ってきそうです。

 

文字通り、業の報いは必ず心が受けます。

 

業の報いと言いますと、病気だとかお金が無いとか、仕事が無いとか、そういう「形」として返ってくると思われがちです。大抵、そう述べていますし、そう受け止められています。
しかし実はこれは違います。違うというよりも不正確です。

 

業の報いは現象で受けるよりも、「心が感受するかたち」で返ってきます。
そして、心が感受するように、形をともなってくることがある、ということです。
分かりますか?この微妙なニュアンスが。

 

分かりやすい例でいいましょう。

 

たとえば過去世において、Aさんは心を込めてXさんを助けました。Aさんは心から助け、また助けられたXさんは心底感謝し、一生、Xさんはその恩義を心にとどめるほどでした。

 

Aさんは死後、人間として誕生しました。過去世においてXさんを助け、その報いとして友人に恵まれ、人間関係で助けられて「楽」を長期間にわたって感受し続けます。一生は、特に苦労らしいことはなく、努力することなく、穏やかな人生を過ごします。

 

これは分かりやすい例ですね。
業の報いとはこういうものです。行いの結果は、心が受けます。
この例では、心が「楽」を受けるのです。しかも人間関係を通じて「楽」を得るのです。

 

この状態を「福」ともいいます。しかし「福」というのが「外見」的なことを意味することが多くなります。外見的な「福」よりも、心が感受する「楽」に、業報のポイントがあるわけですね。

 

業の報いは、心が感受するのです。大金持ちになるとか、贅沢な生活ができるとかは、二の次です。心が業の結果を感受するわけです。

 

分かりますでしょうか。

 

(続く)

続きを読む

2012/06/16


業報のメカニズム〜心の有様が重要な理由

※こちらからのつづき。

 

もう一つ例をあげましょう。

 

過去世において、Bさんは「しょうがねえな」という気持ちで多額のお金を寄付続けていました。仕方ないという理由からでした。

 

来世でBさんは、過去世において行った寄付の報いで、物質的には大変恵まれるようになりました。けれども豊かを実感できません。物に恵まれてはいるのですが、どこか虚しさがあります。潤いの無い生活。Bさんは、そういう人生を過ごします。

 

施しは尊いことなのですが、Bさんは心を汚しながら行ったため、その心が報いとして返ってきているわけです。
世間には、意外とこういうケースはありますよね。物に恵まれても心が満たされない。案外多いかもしれません。こういった現象を引き起こす一つの理由が、偽善から施しを行った場合があります。

 

さらにもう一つ例をあげましょう。
過去世においてCさんは、自分を虐げながら、我慢しながら施しをしました。内心、我慢しながらやっていたので、不平や不満に満ちていました。「これだけ必死にやっているんだから、いつか自分に良い報いがくるだろう。」とメラメラと復讐心に似た思いを燃えたぎらせながら善行を行っていました。

 

Cさんは、死後、転生して人間にまれ変わりました。大変裕福な生活を送ります。しかし心が満たされません。同時に、常にムシャクシャした気持ちになり、横暴な態度を取ることも多くなります。やがて権力に物を言わせて独裁的な体勢まで築いてしまいます。その姿は暴君ネロのようでもあり、独裁者として君臨します。

 

Cさんのようなケースも意外と起きています。独裁的な企業家、自己愛性人格障害者と言われるタイプです。こういった屈折したケースの背景には、前世において怒りに満ちた心で布施や事業を行った場合があると推測できます。施しの見返りとして形(物質)はは恵まれても、汚れた心の見返りとして汚れた心が異熟として結晶化するわけでです。我慢し過ぎたりストレスを抱え込みすぎることも良くないことがお分かりでしょう。ちなみにこういったケースは過激な企業や新興宗教で時々見られます。

 

人生劇場における矛盾したケースを2例紹介しました。こういった矛盾は何故起きるのか。その一つが、「心の有様」と「施しの有様」のアンバランスにあるわけです。

 

だからお釈迦さまは心を浄める「戒」と施しとしての「施」の両方をバランス良く行うこと、特に、心を浄めることを力説もされたわけです。また、感情を激しくさせることよりも「中庸」をおっしゃったわけです。悟りに至る以前に、良い輪廻をするために、「戒・施」を基本として、中庸の教えを説かれています。

 

なお過去世の業は複雑に絡んで結晶化しますので、人生劇場における矛盾は、複数の過去世の業が絡んでいるとも見ることができます(業は7つに分割)。
ですが、「心の有様」と「施しの有様」の矛盾は、来世において矛盾した事象を引き起こす可能性が出てくるということです。

 

おわかりでしょうか。

 

輪廻転生における心の働きです。行った心にふさわしい環境なりが作られていきます。そして心が感受するのですね。
ちなみにパーリ仏典の「天宮事」というお経には、天界へ往生したケースが数多く掲載されています。反対に「餓鬼事」という経典には、餓鬼界へ墜ちた人間の話が数多く掲載されています。これらの話しのポイントは「心の状態です」。どんなに布施をしても、心が汚れていたために餓鬼の墜ちたケースもあるくらいです。

 

物や人に恵まれつつも「つまんねえなあ」とか「もうこんな裕福なのは結構」とか常々思っていると、その心が来世で結晶化します。来世は「つまらない」「貧乏がいい」という感受を心が受けるようになっていくということです。

 

いくつか仏教が述べる業のメカニズムを紹介しましたが、普通に思われている業の仕組みとはかなり異なると思います。

 

心の状態が重要なのです。
そして心が業を受けるのですね。
行いもさることながら、心が業を形作り、心が受けるようになるのです。
これがお釈迦さまが喝破した業のメカニズムなのです。

 

仏教では、業は心が受けるとしています。
だから、仏教の善悪論も心の状態になるわけです。また中庸という姿勢も重要にもなってくるわけです。

 

善悪も心が清らかか、汚れているか、となるわけです。
全部、関連しているのですね。
一つの真理に基づき、すべて説明・解釈ができるようになっているのです。
これが仏教の教えなのです。
非常に深淵かつ密接に関連していることがお分かりいただけたのではないかと思います。

 

今回は業の仕組みについて、その具体的なケースを一部、ご紹介いたしました。

続きを読む

2012/06/17


業報のパターン

結局、業の報いは、

 

・心
・物質

 

の両方が報いとなって返ってきますが、ここでパターンを整理しますと、

 

・心・・・清らか
・物質・・・施しをする
⇒物質的にも恵まれ、快楽が多い人生・・・幸せの多い人生

 

・心・・・清らか
・物質・・・施しをしない
⇒物質的には恵まれないが、快楽の多い人生(普通の人、清貧を楽しむ)・・・幸せの多い人生

 

・心・・・汚れている
・物質・・・施しをする
⇒物質的には恵まれているが、心が貧弱(常に欲求不満、暴君、権力にあぐらをかいて人々を苦しめる)・・・物に恵まれても不遇感の多い人生

 

・心・・・汚れている
・物質・・・施しをしない
⇒物質的に恵まれず、心も貧弱・・・不遇の多い人生

 

このようになります。
ザックリと説明していますが、おおよその傾向は分かると思います。
これらのパターンでおわかりの通り、「心の状態」が幸不幸の決めてになります。

 

だからお釈迦さまは「心を浄めましょう」とおっしゃるわけです。
布施(施し)も大切ですが、それ以上に、戒(心を浄める)が重要なのですね。

 

そうして、業報は、心が感受(心が受ける)わけです。
いくら物に恵まれていても、心が汚れているなら、苦痛を感じます。
仮に物に恵まれていなくても、心が清らかなら、快楽を感じます。

 

善行といえば「何かをほどこすこと」と考えられています。道徳な善行も社会に貢献する、人助けをするという「外見的」なことが重視されがちです。宗教団体も数多くありますが、そこで推奨されている善行の多くは「お布施」です。お布施をすることであなた方は幸せになれると説きます。

 

しかしこれらが不正確なことがおわかりいただけると思います。もちろん、外見的な善行も大切です。施しは大切な善行為です。ですがそれ以上に大切なのが「心の有様」なのです。

 

仏教での善悪の基準も「心」になるのも、果てしない輪廻転生を見届け尽くしたお釈迦さまの卓越した見解なのでしょう。

 

世に多い成功哲学や成功法則も見直しが必要でしょう。
本質的に「成功」の意味が異なるのです。
本当の「成功」とは、心が綺麗になることです。

 

このことは人間誰しも、本能的に直観していることです。
実に「心の有様」こそ、最も重要なことだったのです。

 

善行は、お金も何もかけずに、気持ちさせあれば誰でも今すぐ、今ここでできる実践行なのです。

続きを読む

2012/06/18